孫策の娘はあの名将達へ嫁いでいた!?

2019年1月8日


 

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孫策、陸遜、顧邵、他

 

小覇(しょうはおう)と呼ばれ江東(こうとう)を瞬く間に制圧し、孫呉の礎を築いた孫策(そんさく)

彼は若くして亡くなりますが、息子と娘がいました。

孫策の娘は孫策死後一体どうなったのか。

今回は孫策の娘たちについて紹介します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫策の娘は何人いたの!?

結婚を喜ぶ孫策

 

孫策は26歳という若さで亡くなってしまいますが、何人の娘がいたのでしょうか。

孫策の娘は正史三国志によれば3人いたそうです。

そして孫策の娘たちは全員孫呉の重臣たちへと嫁でいるのです。

孫策の娘たちはいったい誰へ嫁いだのでしょうか。

 

 

 

名将・朱治の息子に嫁ぐ

 

孫堅の武将には彼を支えた多くの名将と呼べる人物たちがたくさんいました。

例えば程普(ていふ)韓当(かんとう)黄蓋(こうがい)孫堅(そんけん)を支えた名将と言えるでしょう。

彼らは孫策の時代になっても孫家をしっかりと支え、孫権の時代になると孫家の重鎮(じゅうちん)として活躍した将軍です。

そして上記の三人以外にも孫堅・孫策・孫権(そんけん)の三代に仕えて、孫呉を支え続けた人物がいます。

孫呉を支え続けた人との名前は朱治(しゅち)といいます。

彼も孫堅へ仕えて戦場で活躍し、その後孫策の時代においても江東平定戦などの戦場で活躍。

そして朱治は孫権の時代になると軍事でも活躍しますが、孫呉の基盤を固めた政治家としての実力も発揮。

更に朱治は孫権の弟の教育を行うなど孫家になくてはならない人物として尊ばれることになります。

そして孫策の娘の一人は朱治の息子のもとへ嫁ぐことに。

朱治の息子は朱紀(しゅき)と言い、軍事に携わっていたそうですが、正史三国志には彼の実績が残っておらず、孫策の娘に対しても何の記載もありませんが、

夫婦仲が特別悪いなどの記載が無い事から、それなりに夫婦の仲は良好であったと思われます。

 

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孫呉の宰相・顧雍の息子顧邵へ嫁ぐ

孫呉の宰相・顧雍の息子顧邵へ嫁ぐ

 

孫呉が領土していた呉郡と呼ばれる場所には「呉の四姓」と呼ばれる名族たちがおりました。

この名族には朱家(しゅけ)陸家(りくけ)張家(ちょうけ)顧家(こけ)の四つです。

そしてここで紹介するのは孫呉の宰相として活躍した顧家の出身の顧雍(こよう)です。

顧雍は蔡邕から琴や学問などを学び、若くして合肥県の長として政治を取り仕切っていました。

顧雍はその後孫権に仕え、江東の地方に割拠している異民族討伐に実績を挙げたり、各地の太守を歴任しながら実績を重ねていくことに。

その後顧雍は丞相の位へ上り、孫呉の政治を取り仕切っていくことになります。

顧雍は孫呉の丞相として20年ほど活躍し、国を安定させることに尽力しますが、病で亡くなってしまいます。

孫呉の丞相・顧雍には三人の息子がいて、長男・顧邵(こしょう)は陸遜よりも名声のある人物でした。

そして顧邵を知っている人々は孫呉の各地から彼の元を訪れて知り合いになろうと多くの人々が集まってくるほどの人気ぶりでした。

顧邵は名声だけの人物ではなく政治の分野においてしっかりと実力も伴った人でした。

顧邵が太守として赴任した地域は身分の低い役人もしっかりと仕事をこなし、顧邵の赴任地の住民達は彼の政治に反発することが無かったそうです。

孫権は顧邵の政治力、そして名声の高さ、そして顧雍の実力等を気に入り、孫策の娘を彼へ嫁がせるのでした。

 

 

「神君」陸遜に嫁ぐ

「神君」陸遜に嫁ぐ

 

孫策の娘は陸遜の元にも嫁いでいます。

陸遜は幼いころに父を亡くしており、イトコである陸康(りくこう)の元に身を寄せていました。

しかし陸康は袁術(えんじゅつ)の武将であった孫策の攻撃を受けて敗退し、その後病で亡くなってしまいます。

陸康の家は陸家の本家でしたが、息子である陸績よりも陸遜が年上であったことから、陸家の後見人として陸家をまとめることになります。

その後陸遜は孫権の時代になって仕えます。

 

はじめ陸遜は文官として孫権に仕え、実績を積んだ後、地方の太守として各地を治めます。

陸遜はこの時、各地の行政をしっかりと行い住民に施しを与え善政を布いた事などがきっかけとなり、賢明な文官として

「神君」とあだ名で呼ばれることになります。

孫権はその後陸遜へ孫策の娘を嫁がせるのでした。

こうして孫策の娘は孫家の重鎮や名将たちへ嫁ぎ、孫策の血筋を残していくことになります。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

孫権はどうして孫策の娘たちを武将達へ嫁がせたのでしょうか。

それは孫家と武将達の結びつきを固くするためです。

孫呉は豪族と孫家が協力して形成している連合国家で孫家だけでは成り立たない国でした。

そのため孫権は孫策の娘を嫁がせたり、各地の豪族の娘を自分の奥さん(側室)として取り入れ、江東の豪族たちと孫家の協力体制をしっかりと築き、

孫呉の土台を強固なものにするため縁組を行っていたようです。

そのため孫権が顧邵や陸遜が好きで孫策の娘を嫁がせていた部分もあると思いますが、それなりの理由があって孫策の娘を嫁がせていたのです。

 

■参考 正史三国志呉書など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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