現在のキングダムにおいて最大の敵、それは趙の李牧と断言して間違いないでしょう。かつて龐煖をけしかけて王騎を挑発して葬り、合従軍編では秦の帝都咸陽まで肉薄し秦王政をギリギリまで追い詰めるような戦いぶりを見せ、現在の朱海平原での戦いでは自らワープ戦法を使い秦軍の左翼の総大将の麻紘の首を獲り、一時は左翼を崩壊寸前に追い込みました。
さらに、史実の縛りから将来は桓騎の軍を撃破してこれを殺害するか、または逃亡させるとされています。正しく、秦キラーとも呼べる李牧ですが、どうして彼は強いのでしょうか?
それは簡単に言うと、李牧の最後の死にザマが余りにも悲惨で救いがないからです。だからこそ、その強さをアピールし最期の悲惨な死をドラマチックに仕立てようとするのでしょう。今回は、李牧の最後の死にザマについて解説してみます。
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この記事の目次
キングダムでの李牧の功績
キングダムの李牧は、知勇兼備で趙の新三大天の筆頭です。初登場は秦趙戦争の終盤で四万の郡を率いて参戦し行軍の速さで王騎を出し抜き、これを討つという大手柄を挙げます。そして、この功績から趙において宰相まで昇進しました。
次に秦を滅ぼす為に六カ国合従軍の発起人として函谷関に50万の大軍で押し寄せ、秦国を滅亡寸前まで追い詰めます。しかし、蕞攻略戦に失敗して咸陽を落とす事ができず合従軍も敗戦。これにより失脚して匈奴との紛争地辺境の雁門へ飛ばされてしまいます。
ですが、その後、どこをどうしたのか始皇帝の八年に宰相に復帰しました。ところが、趙では暗君の悼襄王が即位して佞臣の郭開が政治を取り仕切きったので李牧は政治の実権はもっておらず、もっぱら軍事だけを担当しています。
その後李牧は、秦の中華統一事業を阻止しようと単身で咸陽に乗り込み、七カ国が平和同盟を結ぶ事で秦王政の中華統一の野望を諦めさせようとしますが、ただ一国の強大な国家による恒久平和を目指す政とは意見が合わず決裂。
秦を必ず叩き潰し滅ぼすと宣言し咸陽を後にしました。現在は秦の狙いが黒羊丘の防御陣地ではなく、鄴である事を見抜いて逸早く王都から南下し戦陣を整えて、朱海平原で王翦と対峙しています。
李牧キングダム 史実の功績1 : 戦わない指揮官
一方で史実の李牧は、キングダムの李牧とは様子が違います。李牧は最初から匈奴と趙の国境地帯の雁門で守備隊の長官をしていました。その戦い方は地味の一言で、給料が安い兵士の為に都市に時々租税をかけては兵士の給与を厚くし、毎日数頭の牛を打ち殺しては宴会を開いて武将達をねぎらい同時に、匈奴のような騎射の術を習わして万が一に備えつつも、基本はスパイと烽火を多用した情報網で逸早く匈奴の襲撃を察知して城内に逃げ被害を最小限度に抑えていました。
そして、兵士達には応戦する事を禁じて、破るものは死刑にすると命じました。このお陰で雁門では、誰も匈奴の危害に遭いませんでしたが、匈奴は悔し紛れに李牧を戦が怖い臆病者と罵り、城内でも匈奴にバカにされても少しも応戦しない李牧に非難の声が上がりました。
その噂を聞いた趙王は李牧に「たまには打って出て趙兵の強さを見せつけるように」と命じますが、頑固な李牧は自身のやりかたを一切変えませんでした。
怒った趙王は李牧をクビにして、別の将軍を雁門に派遣しました。次の将軍は積極的に匈奴に戦いを挑みました、しかし、幾ら戦っても趙兵は匈奴に負ける事が多く牛や馬は奪われ物資は取られ、城内の人々はもはや安心して仕事に従事できなくなりました。
趙王は、雁門の治安が不安定になったので李牧を呼び戻そうとしますが、李牧は自宅の門を閉じて頑として招集に応じませんでした。怒った趙王は無理やりに李牧を自宅から引っ張り出したので李牧は渋々受けますが「今後、一切、私のやり方に口を出さない事」を趙王に約束させたのです。
キングダムの李牧もかなり頑固ですが、史実の李牧の頑固も相当なものでした。そして、この李牧の融通が利かない頑固さこそが李牧の最後の悲惨な死に繋がるものだったのです。
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李牧キングダム 史実の功績2: 匈奴騎兵十万を全滅させる
復帰した李牧は以前と同じように戦わなかったので、また雁門の将兵は不満を持つようになりました。そこで、李牧は重い腰を上げ頑丈な兵車を一千三百、騎馬三千頭を選抜、さらに戦功で百金を得た勇者五万人に弓の名手十万人を配置して大演習を行います。それから大いに家畜を放牧して人民を城外に開放しました。
これを見た匈奴が少し侵入してくると、李牧は勝とうとせずに偽って敗走わざと数千人を城外に置き去りにしました。匈奴の王はこれを聞いてやはり李牧は臆病者と侮り大軍を率いて侵入してきます。ここで李牧は砂漠に多くの陣を配置して匈奴の騎兵を翻弄し、鶴翼の陣を用いて匈奴軍を包囲十万騎の匈奴騎兵を殲滅してしまうのです。
これに震え上がった匈奴は、以後十年以上、雁門を襲撃しようとはしませんでした。史実の李牧も将軍としては漫画の李牧に劣らぬ程に優秀だったのです。
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李牧キングダム 史実の功績3 : 廉頗に代わり大将軍になり桓騎を破る
李牧が雁門の守備隊長から中央に招集されたのは、元々趙にいた廉頗が趙王と折り合いが悪く紀元前244年に魏に亡命したからです。そこで、趙王は雁門から李牧を呼び出して燕を攻めさせ、李牧は武遂・方城を落とします。それから、二年後には龐煖が同じく燕の劇辛を撃破しました。
キングダムでは常にバーサクに掛かっている龐煖ですが本当は大変なインテリ武将です。それから、七年後、秦の桓騎が趙に攻め寄せて趙の将軍、扈輒を破って戦死させ十万の趙兵を斬りました。追い込まれた趙王は、李牧を大将軍にして秦に対抗させます。
李牧は秦軍を宜安で撃ってこれを撃破し、秦の将軍桓騎を敗走させました。功績により李牧は、趙から武安君に封じられ王族に列する事になります。さらに、それから3年後、李牧は秦が番吾を攻めた時にも迎撃して撃破して、秦が奪っていた南の韓や魏の領地まで取り返しました。
史実の秦は戦国時代の晩期はほとんど負けなしですが、唯一趙の李牧と楚の項燕にだけは大敗しています。これだけ見ても、史実の李牧がいかに傑出した人物なのか分かります。
キングダム李牧は暗殺される
紀元前229年、趙の幽繆王の七年、秦は王翦に命じて趙を攻めさせます。これに対して趙は李牧と司馬尚に命じてこれを防がせました。しかし、らちがあかないと見た王翦は趙王の佞臣、郭開に多額の金を贈って買収し李牧と司馬尚が謀反を企んでいると讒言させます。暗君として知られた趙の幽繆王はこれを信じてしまい、趙葱と斉の将軍の顔聚を李牧・司馬尚と交換しようとします。ここで李牧、素直に命令に従えばいいのですが、頑固さを発揮し頑に大将軍の地位を降りようとしません。
これに対して、趙では刺客を送り込み李牧を捕らえるとあっさり暗殺したのです。司馬尚は暗殺を恐れて趙を逃亡、喜んだのは王翦でただちに無能な趙葱と顔聚を撃破して殺し、そのまま邯鄲に攻めこんで幽繆王を捕らえ趙を滅ぼしてしまうのです。
あわれ李牧最後は無残な死、それも取るに足りない佞臣郭開の讒言によるという、楚の春申君並の最悪に近いバットエンドです。
李牧はキングダムでも史実同様の最後を迎えるのでしょうか?
そうだとすると内容が余りにも惨めで悲惨なので、もしかするとキングダムにおける李牧の死はかなり脚色されるかも知れません。ただ仮に死ななかったとしても表舞台には登場しなくなるでしょう。そうでないと史実縛りの意味が無くなりますからね。
李牧キングダム イケメンだったの?
李牧はキングダムにおいて死亡するわけですが、そんな李牧の容姿は実際にはどうだったのでしょうか?
漫画では若く筋肉質なイケメンに描かれていますが、史実の李牧はキングダムの時代にはかなり年配だと思います。まず、李牧の最初の登場が紀元前243年であり、その頃には趙王と言い争いをした雁門の偏屈な名将として名が通っています。
しかし、李牧の出自は同時代の史書では明らかではない事から元々無名な人で叩きあげで実力で雁門の守備隊長になったと考えられます。そうだとすると、中央で名前が知られるようになるまで10年やそこらは掛かるのではないかと考えられ、雁門の守備隊長になったのが30歳頃としても、ここから10年キャリアを積んで40歳前後の年齢になります。それが紀元前243年だとすると生誕は紀元前283年現在、キングダム時間は紀元前236年ですから、283-236で47歳という事になります。
キングダムに登場する李牧はどう見ても20代の後半から30代に手が届くかというレベル、実際の李牧よりは20歳くらいは若く描かれていると言えます。まあ47歳でもイケメンはイケメンですからね。
李牧の先祖は秦から来た?
北宋の時代に編纂された「新唐書」宰相世系表二上によると、李牧の祖父は李曇と言い、秦で御史大夫をやっていたそうです。御史大夫とは皇帝に直属する秘書官、御史の筆頭で国政参議官でした。かなりのアッパークラスですが、取り立てて何か手柄は記述されていません。
この李曇の息子が李璣で同じく秦に仕えて秦王の師である太傅を努め、大きな手柄を立てたそうですがなぜか趙に流れていきます。この李璣には、李斉、李雲、李牧という3人の子供があったそうです。当時の秦は精強で、もし、李牧の祖父や父が御史大夫や、太傅のような高官なら名前が残りそうですが不思議な事に史記には名前が出てきません。だとすると、これは、李牧という名将に箔をつける為に創作された話なのかも知れません。
李牧の子孫も智謀の士だった
新唐書宰相世系表二上によると、李牧には3名の子供がいたようです。上から李汨、李弘、李鮮の3名で、この中の李汨の子に李諒、李左車、李仲車がいます。
この中の李左車は祖父の李牧の智謀を移したような有能な人物でした。
楚漢戦争の時代、趙を支配していた陳余は漢にも楚にもつかない独立勢力として漢の別動隊を率い魏を下していた韓信と激突します。
城の途中太行山脈の道筋にある井陘には、車が二両並んで通る事も出来ないような狭い場所がありました。しかし、韓信の軍勢はここを通らないと決戦を行う事が出来なかったのです。陳余の軍師だった李左車は、この井陘の周辺に兵を配置して韓信軍を通過させてから入口と出口を塞いでしまえば簡単に全滅できると説きます。
ところが陳余は二十万という大軍を持って気が大きくなっており、「韓信ごとき小者に姑息な計略を使っては恥」と李左車の意見を退けました。それを知った韓信は手を叩いて喜び、簡単に井陘の隘路を潜り抜け河を背にして背水の陣を敷き、陳余の大軍を迎え撃ち全滅させたのです。敗れた陳余は殺され、李左車は捕虜にされました。
韓信は李左車の智謀を尊敬していて、彼を軍師として遇すると、さらに斉と燕を滅ぼす方法を聞きました。これに対し李左車は「敗軍の将兵を語らず」と進言を拒否しますが韓信は、「趙が再び滅んだのはあなたのせいではない、楚人の百里奚は虞の大夫でしたが虞侯は彼の策を採用せずに滅び、彼が下僕として秦に入るや秦王はその策を入れて栄えたではないですかどうか、謙遜せずに燕と斉を討つ策をお授け下さい」と言います。
そこで李左車は、「※智者は千慮に一失が有り、愚者も千慮に一得が有る」と前置きし韓信の兵は疲れているので、ここは休養を与えて休ませ趙の人々に施しをして、人心を掴んでから、趙人を編成して斉と燕を討てば良いと助言しました。
※知恵者でも千回に1回は誤りがあり、愚か者でも千回に1回は有益な事を言う事があるという意味。
韓信はこの李左車の助言を元に斉と燕を滅ぼしたのです。このように李左車は、祖父である李牧にも負けない策略家だったわけですがその計略は肝心の趙で用いられず敵である韓信に使われたのは皮肉でした。その後、李牧の子孫は前漢の時代に山東に移り、南北朝時代には多くの人材を出し崔、盧、李、鄭、王等の氏族の中で一番の名族になったようです。
キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言
以上、李牧の最後の死にザマについて書いてみました。李牧はキングダムにおいても暗殺の憂き目を見ると思われますが、新唐書の記述を信じるなら、彼の子孫は生き残り南北朝時代には、非常に栄えたという事になります。それが本当であれば、李牧の死も少しは報われるでしょうね。
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