三国志の劉備は農民から始まり、蜀の皇帝になりあがった人物です。
彼の義弟である関羽や張飛も平民出身の人ですが、劉備が皇帝になると蜀のトップクラスの将軍として出世しますが、孫呉にも平民から成りあがった人物がいたのをご存知でしょうか。
その人物とは徐盛と丁奉です。今回は徐盛と丁奉がどのようにして将軍の位にまで出世したの紹介したいと思います。
己の才覚で成り上がった二人の将軍
徐盛と丁奉は陸遜や周瑜のように名家出身の武将ではなく、平民もしくは一番下の役人から出世した将軍です。徐盛と丁奉はどのようにして将軍にまで出世することになったのか紹介していきたいと思います。
黄祖の息子を完膚なきまで叩き伏せた徐盛
まずは徐盛がどのようにして将軍の位にまでに出世したのか紹介していきましょう。徐盛は孫権が領有した江東出身の人ではなく、徐州琅邪国出身の人物です。徐盛は世の中が乱れてくると故郷を捨てて江東へ移り住んできます。
徐盛は江東に移り住んだ後、孫権に仕えることになりますが、彼がいきなり将軍の位を与えられたわけではありません。では徐盛が孫権から何の役職をもらったのか。それは柴桑県と呼ばれる県の長でした。
徐盛は孫権へ仕えると当時最前線であった柴桑県の長に任命され、この地へ赴任することになります。徐盛は柴桑県の長として赴任してから数か月がたったある日、荊州を領有している劉表の武将・黄射が数千人を率いて柴桑へ攻撃を仕掛けてきます。
徐盛は黄射が攻撃を仕掛けてきた時、部下の役人から「黄射が数千人を率いて攻撃を仕掛けてきました。ここはすぐに退却するべきだと思います。」とアドバイスされます。しかし徐盛は「ふざけるな。ここは踏ん張りどころだろうが」と部下のアドバイスを一蹴。
徐盛は柴桑に駐屯している守備兵200人ほどを率いて黄射を迎撃します。徐盛はこの200人を率いて城にこもって黄射軍を迎撃し、一歩も引かずに戦いを継続。更に徐盛は黄射の隙をついて城から出撃して、打撃を与え完膚なきまで叩くことに成功します。黄射は徐盛にボコボコにされると二度と柴桑へ攻撃を仕掛けることをしなかったそうです。
そして徐盛はこの戦いに活躍した事で校尉に任命され、その後異民族討伐戦や魏の大軍を撃破した功績により、将軍にまで出世することになります。このように徐盛は己の才覚で将軍の位にまで出世することに成功するのでした。
抜群の手柄を上げ続けた丁奉
丁奉も徐盛と同じように一部隊を預かる隊長として孫権に仕えることになります。丁奉は孫権に仕えると陸遜や甘寧、潘璋らの指揮下に入って戦へ従軍。丁奉は各将軍の指揮下に入るといつも先頭に立って部下を率いて戦いに参加していったそうです。
更に丁奉は敵の大将を討ち取ったりと活躍していきます。孫権は丁奉の活躍を大いに褒めて、彼を偏将軍に任命します。丁奉も徐盛と同じように戦の最前線で抜群の功績を立てて活躍した事で将軍へと出世した人物でした。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は二人のたたき上げの将軍・徐盛と丁奉を紹介しました。孫呉には徐盛と丁奉のように戦で抜群の功績を挙げて、将軍へと出征した人物が結構いっぱいいます。
例えば賀斉は孫権から後将軍・徐州の牧の位を与えられる孫呉の重鎮でした。しかし賀斉は孫権に仕える前、小さい県の長として役人をやっていた人物です。
また董襲は孫策に仕え、その後戦で敵将を討ち取ったり、異民族討伐戦で活躍した功績が認められ、孫策死後、孫権の時代に将軍へと出世した人物です。このように孫呉にはたたき上げから将軍にまで出征した人物が数多く存在していました。
孫権が領有していた孫呉は周瑜や陸遜、張昭などの名士と一役人から己の才覚のみで出世してきた人達で構成されています。この点は魏や蜀と違い、孫呉独特の組織体制と言えるのではないのでしょうか。
■参考 正史三国志呉書など
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