魏の功臣・賈逵の息子賈充。賈充は父の跡を継いで役職を歴任します。
その後賈充は司馬師の弟・司馬昭の側近として仕えることになりますが、彼が居なければ司馬昭が晋王に就任することが出来なかったのです。今回は賈充の活躍がどうして司馬昭の晋王就任へつながるのかを紹介したいと思います。
賈充の活躍その1:反司馬家勢力の打倒に貢献
賈充が司馬昭の晋王就任に活躍したその1は、反司馬家勢力の打倒に貢献した事です。司馬昭が兄・司馬師の跡を継いだころ、司馬家に反抗する勢力がいました。
反司馬家勢力の中で最大の勢力は諸葛誕です。
彼は司馬氏に反抗していた勢力が反乱を起こした際、反乱軍を鎮圧する功績を残し、司馬家の為に活躍していました。
しかし諸葛誕は自分と親しかった夏侯玄らが殺害された事で、魏で権力を握っていた司馬昭が「自分も殺害するのではないか。」と疑念を抱いていました。
司馬昭も諸葛誕が自分に疑念を抱いていると考えていました。賈充は司馬昭が諸葛誕に疑念を抱いている事を知り「私が諸葛誕の心情を確かめてきましょう」と提案。司馬昭は賈充の提案を採用し、諸葛誕の元へ派遣します。
賈充は諸葛誕と会見すると「司空の位へ昇進させるから、朝廷に来てほしいと司馬昭殿が言っています」と伝えます。すると諸葛誕は「私は司空になるつもりなんてないし、司馬昭の元で仕事をするつもりなんてない!!」と言って司馬昭からの辞令を拒否。
諸葛誕は司馬昭からの辞令を拒否した事で、反乱する決意を固め、翌年孫呉と同盟を結んで司馬家に反乱を起こすことになります。
賈充が司馬昭へ進言しなければ、もしかしたら諸葛誕が急いで反乱を起こすことなく、最大のチャンスが巡ってくるまで機会をうかがっていたかもしれません。そして諸葛誕の反乱が鎮圧された事で、反司馬勢力が打倒されたことを考えると、賈充のおかげで司馬昭の権力が安泰になったと言えるのではないでしょうか。
賈充の活躍その2:皇帝殺害を行う
賈充の活躍その2としては、皇帝の殺害を行った事です。賈充自ら皇帝を殺害したわけではなく、部下を使って皇帝を殺害したのです。
どのようして賈充は皇帝を殺害したのでしょうか。
魏の皇帝・曹髦は司馬昭が皇帝をないがしろにして権力をふるっている現状に怒り、司馬昭を討伐するべく反乱を起こします。
この時賈充は皇帝の軍勢を退けるため、皇帝の軍勢と戦闘を行いますが、皇帝自ら刃を振り回して戦っていたため、誰も手出しができない状況になってしまいます。そのため賈充の部下は撤退することを考えていました。
しかし賈充は配下の武将を呼び「お前たちに給料を与えていたのはこのような時のためだ。すぐに皇帝を討ち取ってこい」と命令を下します。賈充の部下は賈充の命令を受けて、皇帝を殺害するのでした。
もしこの時、賈充の激励が無ければ、皇帝は誰からも反撃を受けることなく、司馬昭の屋敷へ行き、司馬昭を殺害することができたかもしれません。上記のように考えれば、賈充は司馬昭の命を助け、司馬家の存続に貢献したといえるでしょう。
もっと拡大解釈するのであれば、この時の賈充の活躍が司馬昭を救い、晋王朝建国に貢献。そして三国時代統一の大きな要因の一つになったといえるのではないでしょうか。
晋王へ就任した司馬昭
司馬昭は賈充が上記で紹介した活躍により、蜀を滅亡させた後、晋王へ就任することになります。彼が晋王へ就任することが出来たのは、賈充一人の活躍だけではありませんが、賈充の活躍が大きな要因の一つとして考えられるのではないでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
賈充は司馬昭が亡くなった後、司馬炎が跡を継ぐと車騎将軍へ就任し、その後も位がどんどん昇進していきます。
その後賈充は晋の法律の制定に貢献していき、司馬炎が魏から皇帝の位を譲られ、晋王朝が出来上がると晋王朝の元勲として最高位の爵位を送られることになったそうです。賈充は司馬昭を助け、司馬炎の時代も彼を支えた晋王朝の元勲にふさわしいと思うのですが、皆様はどのように思いますか。
■参考 知れば知るほど面白い「その後」の三国志
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