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三国鼎立は悪人・劉備によって生まれた!世界史に三国志がほとんど載っていない理由

2019年5月3日


 

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三国志 居酒屋

 

三国志(さんごくし)を読む前は初めから3つの国が存在していて、そこからストーリーが展開。そのように考えていた読者もいると思います。

劉備を警戒する王粲

 

ここでは古代中国に3つの国が成り立った経緯と劉備(りゅうび)の裏の顔について解説していきます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国鼎立とは?

鼎(かなえ)

 

(かなえ)」とは古代中国の金属製の器です。足の部分が三つに分かれており、上の部分が椀の形をしています。三者鼎立、三足鼎立、三分鼎立とも言い、三国志に限らず3つの敵対する勢力が存在する状態を指します。例えるなら、今のアメリカと中国と日本のようなものです。日本とアメリカは同盟関係ですが、貿易摩擦と生み、中国と日本は「資本主義」と「共産主義」という思想面で相対しています。

 

 

 

諸葛亮が悪いのか? それとも劉備か?

株式会社三国志で働く劉備と孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)劉備(りゅうび)の元に来たとき、最大の敵は曹操(そうそう)でした。

 

曹操

 

すでに曹操(そうそう)は強大な勢力と誇り、呉軍(ごぐん)劉備(りゅうび)軍を脅かしていました。諸葛亮は先に荊州(けいしゅう)を奪ってから、呉軍と組むという提案をします。

 

 

挑発する諸葛亮孔明

 

 

ところが劉備(りゅうび)は提案を拒否。理由は曹操に降伏した劉琮(りゅうそう)が親戚筋だったからです。やむなく諸葛亮は君主に従います。ここまでの悪役は諸葛亮でした。親戚の土地を奪って、王様になってしまえというのですから…。

 

 

民間伝承の三国志

 

 

 

赤壁の戦いが生み出したもの

魏曹操と魏軍と呉軍

 

きっかけは、かの赤壁の戦い(せきへきのたたかい)での呉・劉備連合軍の勝利でした。江東の孫権(そんけん)は呉という国を建てていましたが、劉備はまだフラフラしていました。

 

 

赤壁の戦い

 

 

要するに赤壁の戦いの前までは三国鼎立という状態ではなかったのです。この辺りから悪人・劉備が顔をのぞかせます。荊州(けいしゅう)の地が赤壁に近かったことから、安心した劉備は荊州南部を戦後のマッカーサーのように占領します。

 

 

 

劉琦の死

蜀の劉琦

 

やがて、劉備は劉琮(りゅうそう)の兄弟だった”劉琦(りゅうき)”を荊州のトップに仕立て上げるのです。実はこの劉琦、曹操に劉琮が白旗を上げたとき南の地へと逃れていました。劉琦は父親が亡くなったときに死に目に会えなかったことを恨んでいたのです。一年後、劉琦は天に召されます。元々、病弱だったので先は長くなかったのでしょう。こうして荊州トップの地位に空白が生じます。

 

 

独立宣言

三国志の主人公の劉備

 

 

部下の薦めもあって劉備は荊州トップの座に着きます。三国鼎立が誕生した瞬間でした。劉琦の親戚である劉備が後を継ぐのは自然な流れでした。

 

 

孫権 劉備 対立

 

 

しかし、これを快く思わなかったのが呉軍。打倒・曹操を宣言して固く結ばれていた劉備軍を裏切り者と揶揄します。

 

 

孫尚香

 

 

劉備が独身だったことから、呉軍の大将・孫権は妹(孫尚香(そんしょうこう))を劉備の妻として推薦します。そして共同作戦によって、赤壁の戦いのように蜀の地を奪おうと画策するのです。

 

 

二刀流の劉備

 

 

ここで悪人・劉備は孫権の提案を辞退します。理由は明白、荊州の独立国家となった以上、小さくても蜀は自らの力で奪い取るという野心が芽生えたのです。

 

 

進軍開始

劉璋(りゅうしょう)

 

 

西暦211年。蜀を治めていたのは”劉璋(りゅうしょう
)
”でした。彼も劉備の親戚筋です。

 

 

法正と張松

 

 

しかし、劉璋は人望がなく、劉備に遣わした張松(ちょうしょう)法正(ほうせい)には愛想をつかされていました。

 

 

劉備と張松(ちょうしょう)

 

 

彼らは劉備に兵を出すようお願いするどころか、自らのボスが統治する蜀を奪ってしまえと持ちかけます。さあ、悪人・劉備の登場です。

 

 

龐統

 

 

龐統(ほうとう)の薦めもあって劉備は蜀へと足を運びます。

 

 

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

 

宴会に招待され、劉璋から武器・弾薬を借ります。すべては劉璋サイドは敵の張魯(ちょうろ)に対抗するためだったのですが、劉備は蜀を乗っ取るために借ります。

 

 

呉の孫権

 

 

西暦212年、呉の孫権から援軍要請が届きます。好機とばかりに劉備は劉璋配下の武将を殺害、葭萌城(かぼうじょう)を占拠します。そして、蜀の都・成都(せいと)へと向かいます。

 

 

蜀 武運を誇る馬超

 

 

さらに馬超(ばちょう)を味方に引き入れ、成都(せいと)を包囲。

 

 

劉備に降伏する劉璋

 

 

勇猛果敢に馬超が入城すると劉備の送った降伏文書に劉璋はサインをしてしまいます。こうして名実ともに三国鼎立ができあがります。

 

 

三国志ライター上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

悪人・劉備は成都包囲から10年後の夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で敗北、病に倒れます。つまり、実質的に三国時代は10年ほどでした。非常に短いと思うでしょう。

 

 

劉備の黒歴史

 

 

世界史の教科書に三国志がほとんど載っておらず、ショックを受けた三国志ファンのみなさん。原因は10年という短すぎる歴史にあったのです。

 

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上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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