初代皇帝劉備の死後、蜀漢の政権運営を一手に担ってきた諸葛亮が、陣没したことで有名な五丈原の戦い。
諸葛亮の傍らには才を認めていた姜維がいつも従っていましたが、「大黒柱の死」という大ピンチであるこの時、彼はいったいどんなことをしたのでしょうか。
この記事の目次
なんだか地味~、諸葛亮の寿命を縮めたにすぎない五丈原の戦い
開戦当時もっとも天下に近かった袁紹を、曹操が番狂わせで屠った「官渡の戦い」や、反対に絶大な戦力で南下した曹操を、劉備・孫権連合軍が打ち破った「赤壁の戦い」と並び、三国志における三大決戦の一角とされる五丈原の戦い。
しかし実際は、蜀軍と魏軍がにらみ合いを続けるだけの地味な戦況であり、三国志演義でも歴史を大幅にひん曲げて脚色するのに苦労したようで、正史とほぼ同じ描写がなされています。
魏軍・司馬懿は防御側ですからうかつに仕掛けないのがセオリー、では蜀軍・諸葛亮が攻撃を仕掛けたかと言えばそうでもなく、地元農民と兵に麦を蒔かせ屯田を行うなど、持久戦の構えを見せます。なぜ10万もの大軍を擁し5度目の北伐に乗り出した諸葛亮が、こんな盛り上がりに欠ける作戦を取ったのか。
それは、高台に布陣した魏軍に蜀軍側から戦闘を仕掛けると、上から弩で狙いやすい格好の的になってしまうため、圧倒的に不利だったからです。演義において「超絶スーパー軍師」として描かれる諸葛亮が、そんな不利な布陣を敷いたのかはなはだ疑問ですが事実は事実。
焦った諸葛亮は司馬懿の本陣に女衣を送りつけ、「女々しい奴め!」と暗に罵るなど挑発を繰り返しますが司馬懿は動かずじまい。
結果にらみ合いは100日を超え、激務の影響もあってとうとう病に倒れた諸葛亮は、秋風吹きすさぶ234年旧暦8月、五丈原にてあえなく散ることになるのです。
スターダムへ!「演義」で描かれている姜維の行動とは?
後半のメインイベントである五丈原に戦いがこのままでは地味すぎて、一向に盛り上がらないと考えた演義・編集チームが目を付けたのは、過労死に過ぎない諸葛亮の「死に様」をドラマチックに変え、メインキャストに姜維を据えてしまうことでした。
なんと演義では、死期を悟った諸葛亮に姜維が「延命祈祷」を進言し、受け入れた諸葛亮がさっそく決行するエピソードが追加されているのです。
祈祷の内容は「歩罡踏斗」というステップを、7日にわたって毎晩飲まず食わずで踏み続けるというもの。
ステップを踏む諸葛亮の前にはロウソクが掲げられており、これが7日間灯り続ければ、彼の寿命はなんと12年も伸びるというではないですか!スゲー!
なんでも、ステップを踏むことで体内に大地のオーラが入り込み、病魔を退治してくれるのだそうですが、そんな無茶をせずおとなしく薬でも飲んで、安静に寝ていた方がずっと良いと思うのですが…。
ともあれ、満身創痍の体に鞭打って最後の1日までこぎつけた諸葛亮でしたが、この時蜀軍が静かなのに不審を感じた司馬懿が大軍で攻め寄せ、それを知らせに駆け込んで来た魏延が、なんと大切なロウソクを消してしまうのです。
助手をしていた姜維は激怒、魏延を切り殺そうとしますが、「魏延のような悪党にロウソクを消されたのも天命…」とそれを止めた諸葛亮はあっさり鬼籍に入ってしまう…、これが演義での演出です。
このエピソードにより「悪党・魏延」「英雄・姜維」という色分けがはっきりし、諸葛亮から授かった秘策によって魏延を滅ぼした彼は、演義という歴史小説を締めくくるスターの一人になっていくわけです。
姜維があの名フレーズ誕生に一役買っていたのは事実
演義では占星術によって諸葛亮の死を知った司馬懿が、「諸葛亮が死んだなら蜀軍なんて楽勝~!」と自ら兵を率いて打って出たものの、陣中に車いすに乗る諸葛亮とそばに侍る姜維を発見。
「ゲッ生きてる!さてはヤツめ妖術で偽の死兆星を落としたのか!みんな逃げろ!」と北斗の拳のようなセリフを吐いた挙句、軍勢を置き去りにして逃げ去る描写になっています。
ご存知の通り司馬懿が目撃した諸葛亮は本物そっくりの木像であり、天才軍師が愛弟子・姜維に授けた最後の計略に見事に引っかかる無様な姿から、「死せる孔明生ける仲達を走らす」という名フレーズは誕生したと思っている方も多いはず。
しかし正史でも、諸葛亮の死を知っていたかは定かではありませんが、蜀軍が撤退を始めると司馬懿は戦の定石に従い、全軍を上げて追撃を開始。追撃にいち早く気づいた姜維は、諸葛亮の死後総司令の地位にあった楊儀とともに、陣太鼓を鳴らしながら軍を反転、喚声を上げながら追撃部隊へ猛攻撃を仕掛けたのです。
231年の第4次北伐時、片腕と頼む張郃を追撃戦で失うという苦い経験をしていた司馬懿は、弱気になったのか全軍に撤退を指示、これにより蜀軍は無事退却に成功します。そして様子を遠目で眺めていた近隣住民がこぞって「死せる孔明生ける仲達を走らす」とはやしたてたため、この名フレーズは後世まで伝わっているのです。
もちろん、諸葛亮が死兆星を落としたとか、木像にビビって司馬懿が逃げたとか、この辺の描写はフィクションでしかありません。
しかし、戦力に勝る魏軍の猛追撃に対して姜維が敢然と立ちはだかり、本隊壊滅を防いで名フレーズ誕生に一役買ったのは確かなようです。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
演義では、諸葛亮が登場する場面に必ずと言っていいほど顔を出す姜維ですが、諸葛亮の死後実際にその棺を守りながら、撤退戦を指揮したのは楊儀。
正史はじめ他の歴史書を元にすれば、当時姜維は楊儀指揮下のいち将軍でしかなく、演義で描かれている「諸葛亮の第一後継者」という趣は、正直事実とは言えません。とはいえ、大将軍に登り詰め大国・魏を恐れず何度も立ち向かい、劉禅が降伏した後もあきらめず再興計画を実行した姜維の姿に、歴史ロマンを感じる三国志フリークは多く、かくいう筆者もそんな1人です。
関連記事:姜維はなぜ魏から蜀に寝返った?
関連記事:姜維の北伐失敗と蜀の衰退