曹操の長男である曹昂。
魏の初代皇帝となった曹丕は彼の弟に当たります。曹丕は耳にしたことのある読者は多いですが、「曹昂」を知る人はかなりの通です。
ここでは曹昂の手腕と彼の死がもたらした曹一族の命運について紹介していきます。
この記事の目次
公務員試験の「郷挙里選」では特別待遇だった曹昂!
曹操の最初の奥さんは「劉夫人」でした。端的に言えば曹昂の母親に当たるのですが、若くして他界。
次の妻となった丁夫人が曹昂を育てます。
曹昂は20歳になると当時の公務員試験となる「郷挙里選」に特別枠で臨みます。郷挙里選には高校野球の21世紀枠のようなルートがあり、地域から一人だけ推薦することができました。それに選ばれたのが曹昂、偉大なる曹操の後ろ盾があったとはいえ切れ者だったのでしょう。
曹昂の出世の道が開けます。
父を助けた曹昂の機転
当時、曹昂の父・曹操は「張繍」と争っていました。裏には劉表がついています。
やがて、曹操は白旗を上げるのですが、こっそり張繍側にスパイ活動を行っていました。もう少し正確に言うと張繍の親戚の妻をかこってしまったのです。それが張繍の耳に入り、目を三角にして怒ったそうです。
すると曹操は密かに「張繍暗殺プロジェクト」を立てます。
ところが、張繍の方が一枚上手でした。宛(河南省南陽市)にいた曹操の元に真珠湾攻撃のごとく奇襲を仕掛けます。計画の途中で奇襲を仕掛けられた曹操は大慌てだったことでしょう。
すると、父親思いの曹昂は自身が身代わりとなり、父・曹操が逃げられるよう自分の馬をやって、戦場から離脱させるのです。
張繍の奇襲作戦は敵ながら天晴れで曹操サイドは曹昂を始め、曹安民・典韋らも命を絶たれます。そして、張繍は曹操をさらに追い詰めます。
丁夫人が曹操と別れたのは曹昂の死が原因!?
曹昂の死に悲しんだのは曹操よりも育ての親である丁夫人でした。もともと曹昂を生んだのは第一夫人の劉夫人でしたが、第二夫人の丁夫人と曹操の間には子どもができませんでした。
そのため、丁夫人は夫である曹操の跡継ぎとして曹昂を大変可愛がっていたのです。それが自らの不倫が原因で敵に攻め込まれたうえ、宛の地を守るどころか息子の曹昂から譲られた馬で逃げたのですから、丁夫人が悲しむのも無理はありません。
ほとぼりが冷めるのを待とうと曹操は丁夫人を一旦、実家に返します。曹操は丁夫人を愛していたため、何度も求愛を試みますが、丁夫人の子ども失った悲しみは癒えませんでした。
結局、曹操と丁夫人は息子・曹昂の死を機にハートブレイクしてしまうのです。
曹操一家のその後
第三夫人の卞夫人と曹操との間に生まれたのが曹丕でした。長男の曹昂が星になったあと、次男も他界しました。そのため、曹丕はまるで曹操の長男であるかのように扱われたのです。
しかし、離婚した丁夫人を思って、新しく曹操の妻となった卞夫人は定期的に丁夫人を見舞ったり、こっそり屋敷に呼んでいました。なぜなら、丁夫人は曹丕も育てていたのです。
卞夫人は38歳で曹操とゴールイン
もともと卞夫人は十代の頃はダンサーで、曹操の妻になるような身分ではなかったのです。実質的に丁夫人は目上の存在で38歳で後妻となった卞夫人にしてみれば、非常に尊い存在でした。
不運にも子どもの死がきっかけで丁夫人は曹一族の屋敷を後にしましたが、夫人同士ではうまくやっていたようです。
三国志ライター上海くじらの独り言
俯瞰してみると曹操はいろいろな女性とスキャンダルになっていたようです。
しかしながら、息子や夫人たちはそれをうまくコントロールし、曹一族を守ってたようにも見えます。表向きは曹操や曹丕の活躍が取り上げられますが、曹操に関しては亡くなった曹昂や離縁した丁夫人、皇后となった卞夫人も大いに魏の運営に役立っていたことがわかります。
また、長男の曹昂の機転がなければ、曹操は宛の地で張繍にあっさり首を取られていたでしょう。
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