虎形棺座。まず日本人でスラスラ読める人は少ないでしょう。用途は棺の台座です。その棺が呉の栄えていた南京の墓から発掘されました。
棺の形から墓の主の真相まで分かりやすく解説していきます。
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虎形棺座はなぜ虎の形をしているのか?
「江東の虎」とは呉の孫権の威名。虎は古来より中国における強さのシンボルだったのです。
また、「前門に虎を防ぎ、後門に狼を進む」とは趙弼の『評史』にある言葉。中国で虎が生息しているため、一般の人々にも身近な存在だったのです。
その一方で皇帝が身に付ける正装には「龍」の図案。形の上では後漢の皇帝が存在していたため、呉の親玉でも龍を使うことは憚られたのです。
そうなると残りは虎、鳳凰、麒麟などです。フィクション性の高い鳳凰などよりは身近な虎の方が武将として威厳を保てたのかもしれません。そして台座の模様も虎が選ばれました。
道路工事中に見つかった上坊1号墓
南京に「南京江寧科学園」という学校があります。緑豊かで敷地は広く、そこに道路が通っていたのです。人や自動車が構内を行き交うのが日常茶飯事の中国の大学。そこでは道路工事が行われていました。授業がある日も普通に工事が行われるのが中国。
すると大型の室内型墳墓が見つかったのです。あまりの大きさに工事関係者も目を瞠ったことでしょう。全長は20.16メートル、幅は10.71メートルもありました。
参考までに湖北の孫将軍の墓の長さが9.03メートル、朱然の墓の長さが8.7メートルです。偉大な発見であることは間違いありません。まもなく地元では「南京市文物局(遺跡などを扱う)」と「南京市江寧区文化局」の二つが組織されました。
この発見は中国の考古学会を揺るがす発見となり、調査は8カ月にも及びました。発掘を進めるうちに中国でも最大級の墓であることが分かり、墓の主だけが判明しませんでした。
しかしながら、三国時代の呉の墓でも最大規模であるため、国家クラスの保護対象に格上げされました。
その墓の一部から「虎形棺座」は出土したのです。
誰の棺が置いてあったのか?
棺を置く台座ですから、上には誰かの亡骸が乗っていたはずです。
呉でも最大の墓。皇族の誰かの墓であることは確かでした。
虎形棺座は孫皓説
まずは「孫皓説」を解説。実は墓の両脇から「孫」と「皓」の二つの文字が刻まれていました。左右に一つずつという形です。
可能性としては孫皓説が最も高く、孫権の孫にあたる孫皓の墓ではないかと言われています。孫皓は呉のラストエンペラーで派手なものが好きでした。
そのため、墓をいくつも建造していたのです。孫皓が皇帝としての地位にあった期間から算出しても整合性が取れていました。
しかし、反論もあります。秦の時代から明・清に至るまで皇帝は即位すると同時に自分の墓を作り始める習慣がありました。孫皓が皇帝だった頃、晋の武帝は滅び、洛陽も陥落していました。そして上坊の墓に孫皓が埋葬されることもなかったです。
さらに歴史書を見ても孫皓の記載はありません。西暦500年ころまでの墓の風習で、墓の片側に辞世の句などを記し、もう片方に墓の主に関連すること、つまり生前の名前や異名などを記していました。よって、偶然、辞世の句の中に「孫」または「皓」の字が入っていたとする主張です。
虎形棺座は孫峻説
次に大臣の「孫峻説」です。さきほど孫皓説を述べましたが、孫皓は洛陽の邙山に埋葬されました。
同様にに孫堅は丹陽、孫権とその皇太子・孫登は南京の鐘山、孫亮は丹陽、孫休は安徽省の馬鞍山、孫和は烏程県と皇帝クラスの陵墓は正確な埋葬場所がわかっているのです。そうなると皇族に近く、権力を握った大臣の「孫峻」ではないかという説も可能性として捨てきれません。
まさに孫一族のミステリーです。
三国志ライター上海くじらの独り言
発掘と推測による歴史のアドベンチャーは楽しいものです。
数ある資料を調査、分類し、各々が想像力を膨らました説というのは説得力があります。これを機に読者のみなさんも「虎形棺座の主」を研究してみてはいかがでしょうか。夏休みの自由研究や大学の卒論にもいいかもしれません。
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