建安13年(208年)に曹操は荊州を平定すると、すぐに呉(222年~280年)の孫権と決着をつけるために南下しました。
しかし、孫権は劉備と連合して曹操を大破しました。有名な「赤壁の戦い」です。この赤壁の戦いの結末は複数ありますが、今回は有名な火責め作戦の話を筆者は採用します。さて、この戦で劉備・曹操・孫権の3人はその後どうなっていくのでしょうか。
黄蓋の火責め作戦
呉の将軍の黄蓋が虚偽の降伏文書を曹操に渡して曹操を信用させます。
準備を整えた黄蓋は降伏すると偽って、大量の油を積んだ船で曹操の船に突っ込んでいきます。突っ込まれた曹操は、さあ大変。急いで逃げ帰ります。
これは一般的に知られている内容であり、小説『三国志演義』でも取り入れています。
ちなみに、突っ込んだ黄蓋は長江に落ち込んでケガをするのですが運んだ兵が、黄蓋と気付かずに便所に転がしておいたようです。
黄蓋が可哀そうです。不幸中の幸いにも同期の韓当が通りかかったので、助けられたようです。
曹操 負けてもプラス思考
負けた曹操は船を劉備にも焼かれてしまいました。仕方なく敗残兵を率いて華容道を通っていきました。ところが、道は泥でぬかるんでおり風は強い。曹操は弱った兵に草を持たせて、ぬかるんだ道を舗装させた。鬼だ、悪魔だ、ブラック企業だ、法的措置を・・・・・・と言いたいところですが、時代が時代ですので言えません。
結局、弱い兵は馬に踏みつぶされて死にました。どうやら、この逃避行で莫大な死者を出したようです。曹操はどうにか逃げ帰ってこう言いました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「劉備は私と同レベルなんだけど、ただ、計略を考え付くのが遅いよね。先に私の行く所に火でも放てば全滅だったのに」
負けてもプラス思考な曹操でした。
劉備と孫権 荊州借用問題の始まり
孫権は赤壁の翌年の建安14年(209年)に、南郡にいる曹仁を破りました。ここから劉備と孫権の間で、ある問題が発生します。
「荊州借用問題」です。荊州は戦略上、重要な土地です。曹仁を破った同年に劉備は勝手に兵を動かして、荊州の西部・南部に当たる武陵郡・零陵郡・桂陽・長沙郡をとりました。ただし、長沙郡を除いた3つは重要ではありません。
問題は勝手に兵を動かしてとった事です。周瑜はこの機会に、劉備を拘束するべきと主張しました。一方、魯粛はその意見に反対して劉備を曹操に対しての牽制として用意するべきと主張しました。
間もなく、建安15年(210年)には周瑜が亡くなって呉軍の全権が魯粛が握ったので、荊州問題は魯粛が担当しました。つまり、魯粛の主張が入れられたのです。
こうして、劉備に荊州の領土の一部を貸すことが決定しました。これが有名な「荊州借用問題」です。孫権の言い分では「貸した」というだけです。
ただし、劉備の言い分では「もらった」と思っています。
この問題は関羽を討つ建安24年(219年)まで続くことになります。
三国志ライター 晃の独り言
以上が赤壁の戦いの結末から、劉備・曹操・孫権の3人がどうなっていくのか記事にしました。なお、これはずっと後の話ですが、孫権は陸遜と昔の将軍たちについて話をしました。
この時に孫権は「荊州を貸したのは魯粛のミスだったな・・・・・・」と言いました。やっぱり、孫権の気持ちとしては周瑜の意見を採用したかったのでしょう。だから、呂蒙が関羽を討つ時にあっさりとOKにしたのでしょうね。
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