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諸葛亮と舌戦を交えた人物は誰?

2019年7月21日


 

曹操

 

建安13年(208年)に曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)を平定すると、すぐに呉(222年~280年)の孫権(そんけん)と決着をつけるために南下しました。しかし、孫権は劉備(りゅうび)と連合して曹操を大破しました。

 

赤壁の戦い

 

有名な「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」です。この戦いで呉は主戦派と投降派に分かれて、投降派は諸葛亮と舌戦を交えて敗北します。もちろんこれは創作です。だが、諸葛亮(しょかつりょう)と舌戦を交えた人物はあまり知られていません。

 

そこで今回は諸葛亮と舌戦を交えた人物が誰なのか正史『三国志』をもとに解説をしようと思います。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呉の筆頭家老:張昭

張昭 VS 孫権

 

張昭(ちょうしょう)は呉の筆頭家老です。諸葛亮と最初に舌戦を交えて倒されます。知られているとしたら、この人ぐらいです。

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

張昭は孫権の兄の孫策(そんさく)が死ぬ前に政治権で後を託された人物です。

 

孔明

 

まさに蜀(221年~263年)でいう諸葛亮のような存在です。赤壁の戦いで降伏論を主張したのは事実です。だが、その理由については不明です。

 

孫権と張昭

 

孫権と張昭はお互い水と油でした。後年、張昭がストライキをして自宅に引きこもる事件を起こします。頭にきた孫権は「あんたの顔なんて見たくない、大嫌い!」と急に女子っぽいことを言い始めます。

 

孫権と張昭

 

読者の皆様の予想は、張昭が「待てよ」と言って、「壁ドン」や「耳つぶ」でもすると思うでしょう。

「思うわけねえだろう!くだらねえ事言ってねえで、さっさと続けろ!」

 

怒られたので、続けます。実際は「私はねえ、あなたのお母さんから死ぬ間際に遺言で・・・・・・」と説教が始まったのです。とにかく孫権と張昭はマジでお互い嫌いだったのは有名だったのです。

 

 

 

呉の変わり者:虞翻

 

2番手は虞翻(ぐほん)です。この人は呉の変わり者です。とにかく主人の孫権に平気な顔で反抗する。孫権は酒好きで有名でした。ある日、部下と一緒に飲み明かしました。ところが、虞翻は大の酒嫌いです。適当に飲むフリ・寝たフリをしていました。これが孫権にバレてしまいます。

 

「もう許せねえ、ぶっ殺す!」とキレた孫権ですが、先ほどの説教臭い張昭が止めに入ります。

 

腐れ儒者気質な孔融

 

それに対して孫権は「曹操だって孔融(こうゆう)を殺したじゃないか。なんで俺が虞翻を殺しちゃダメなの?」孔融は曹操に殺された孔子(こうし)の子孫です。おまけに学識のレベルは、虞翻と同格です。

 

孔融と禰衡

 

殺された理由も主人の曹操に反抗したからでした。しかし、子供のような理論は通用しません。結局、孫権も頭が冷えたのか虞翻をそれ以上、責めることはしませんでした。ところが、虞翻はその後も平気な顔で孫権に盾突くので最後はベトナムまで左遷されました。

 

しかし、虞翻は平気な顔をしていました。

 

 

人材登用に積極だった人物:歩隲

 

3番手に出て諸葛亮に敗れたのは歩隲(ほしつ)です。この人は最初の2人のインパクトが強いので、まったく目立ちません。実は呉の丞相です。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

丞相に就任したのは陸遜(りくそん)が亡くなった後です。また、歩隲が積極的に行ったのは人材登用でした。世に埋もれて日の目を見ることが無い秀才を積極的に登用してあげました。

 

 

赤壁の戦いの時はいなかった人:薛綜

 

薛綜(せつそう)は戦国時代の四君の1人孟嘗君(もうしょうくん)の末裔と言われています。もちろん自称です。4番目に出て論破された人ですが、この人は正史『三国志』によると赤壁の戦い当時は孫権配下ではありません。

 

士燮

 

ベトナム方面の独立勢力士燮(ししょう)の配下です。孫権の配下になったのは、赤壁の戦いから2年後の建安15年(210年)です。

 

魯粛の後任は呂蒙ではなくこの人:厳畯

 

厳畯はマイナーすぎて、知っている人もほとんどいません。筆者もゲームで少し知っていた程度です。諸葛亮に最後に論破されるのはこの人です。

 

魯粛、孫権、孔明

 

あまり知られていませんが、魯粛(ろしゅく)死後の後任は呂蒙(りょもう)ではなく、この厳畯でした。しかし、厳畯自身が「軍事に疎いので辞退します」と自分から断りを入れたことから、呂蒙になったのです。また、諸葛亮も厳畯の学識は認めていました。決して論破されるような馬鹿な人物ではなかったのです。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が諸葛亮と舌戦を交えた人物に関する記事でした。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

ほとんどの人が、『三国志演義』では諸葛亮にやられるため、ネガティブな印象が強いですが、実際はそうでもない人が多いのです。でも、虞翻のように変わった人もいますけど・・・・・・

 

※参考文献

 

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

 

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YASHIRO

YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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