二宮の変を考察!二宮の変は陸遜の殺害が目的だった?


三国志 居酒屋

 

三国志の三大国家魏・呉・蜀の三つの国家にはいろいろな事件が発生しています。

 

曹操と曹丕

 

例えば魏では曹操(そうそう)の後継者を決めるための争いが発生。

 

皇帝に就任した曹丕

 

この争いは曹操が迷いに迷った挙句、曹丕(そうひ)を後継者に定めたことにより集結します。

 

蒋琬(しょうえん)

 

また蜀では蒋琬(しょうえん)の後に蜀の軍事と政治を取り仕切るトップに君臨した費禕(ひい)が殺害される事件が起きています。このように魏・蜀両国で事件が起きていますが、孫呉でも大事件が勃発。

 

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

孫呉の大事件の名前は「二宮の変(にきゅうのへん)」と呼ばれる事件です。この事件は孫呉にとってどんな事件だったのか考察してみました。

 

自称・皇帝
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二宮の変とはどんなヘン??

孫権に気に入られる孫覇

 

さて孫呉の大事件「二宮の変」の考察をする前に、この事件が一体どんなヘンだったのかさくっと紹介しましょう。二宮の変は簡単に言うと孫権の後継の座を巡って起きた事件です。

 

孫和

 

孫権は皇太子・孫登(ふそんとう
)
が亡くなった後、孫和(そんか
)
を皇太子に決めていましたが、孫和の弟・孫覇(そんは
)
にも太子である孫和と同じ待遇を持って優遇していました。そのため、孫和と孫覇は孫権の後継者をめぐって喧嘩。

 

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

更にこの喧嘩に孫呉の重臣たちがそれぞれ、孫和・孫覇派となって派閥を作り、孫呉の勢力を二分して争う大喧嘩へと発展してしまいます。この喧嘩は5年間も続きますが、喧嘩両成敗となり無事解決することになります。

 

後継者争いを放置する孫権

 

この孫呉の勢力を二つに分けた大喧嘩を後世「二宮の変」と呼ぶことになります。上記が二宮の変のざっくりした概要ですが、孫権はどうして5年間も孫和と孫覇の争いを放置していたのでしょうか。

 


 

「レンの考察」陸遜に近い勢力の結集を待つため!?

後継者争いで悩む孫権

 

孫権はどうして5年間も孫和と孫覇の派閥争いを放置していたのでしょうか。ここからはレンの考察になります。

 

陸遜

 

孫権が5年間も二人の争いを放置していたのは、陸遜(りくそん)に近い江東名士たちの勢力を一掃するためだったと考えます。

どうして孫権は陸遜に近い江東名士達を一掃しようとしたのでしょうか。


 

「レンの考察」二宮の変で陸遜に近い江東名士達を一掃した理由は「陸遜を恐れていたから」?

陸遜

 

孫権はどうして北方名士達を優遇し、江東名士達を殺害していったのか。それは孫権が陸遜と彼に付随する名士勢力を恐れていたからです。

 

陸遜

 

どうして陸遜や彼に近い江東名士を恐れていたのでしょうか。


  

 

 

孫権が陸遜と彼に近い江東名士の勢力を恐れていた理由は?

呉の孫権

 

孫権はどうして陸遜や彼に近い江東名士を恐れていたのでしょうか。それは陸遜が江東名士最大の勢力を持っていたからです。

 

陸遜

 

江東名士達の中で最大の勢力を持っていたのは丞相・陸遜でした。彼は江東の会稽・呉郡両方に勢力を持っている陸氏の棟梁で多くの弟子や知り合いを持ち、多くの名士達が陸遜の元に訪れ知り合いになった結果、江東名士の最大勢力を築くことになります。

 

孫策、陸遜、顧邵、他

 

更に陸遜は孫策(そんさく)の娘を奥さんとしてもらっていました。そのため陸遜は孫権の死後、陸氏の勢力と交友を持った江東名士達の勢力を結集して、孫呉の新しい皇帝の力を凌駕する力を持ち、皇帝を飾りにして、自分で政権を好きなように動かす可能性がありました。また陸遜は孫策の娘を奥さんにしている事から、陸氏の中から新しい皇帝を立てることも、もしかしたらできたかもしれません。

 

後継者問題に口出ししてきた事に恐れを抱く孫権

呉の孫権

 

孫権は孫呉の政権でこれほど強大な勢力を持っていた陸遜が、後継者問題に口出ししてきた事に危機感を感じます。更に陸遜は孫権に後継者問題に対して口出しするだけじゃなく、彼に近しい人々が孫亮に力を貸していきます。

 

合肥の戦いで痛い目にあった孫権

 

孫権は陸遜や彼の知り合い達が孫亮に力を貸した事に不信感を感じ、陸遜一派が孫呉を奪うかもしれないと恐怖。孫権は孫呉の名士勢力最大の陸遜が後継者問題に口を出したり、孫亮に力を貸し始めたことで、彼らを信用することが出来ず、陸遜一派の殺害を決意のではないでしょうか。

 

孫権の後継者になりたい孫覇

 

そして孫権は二宮の変を利用して、陸遜に近しい勢力を一掃し、孫呉の二代目皇帝が安全に国を運営することのできる環境を作り出すために、孫和と孫覇の争いを放置していたのではないでしょうか。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

孫権は陸遜や彼に近しい勢力を一掃することに成功しますが、孫権もやりすぎてしまったと後悔していたようです。その証左として孫権は陸遜の息子・陸抗に対して、涙を流して謝罪したと「正史三国志呉書」に記されています。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

後悔するくらいなら陸遜たちを殺害せずに信用すれば良かったと考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし孫権は死後、自分の子供たちが国を運営していくためには、江東名士の最大派閥・陸遜一派を除外しておかないと彼らの勢力によって、政権を操られる可能性がありました。

 

そのため孫権は子供たちが政権を安定して運営していくために致し方なく、陸遜一派を殺害したのかもしれません。

 

■参考文献 正史三国志呉書など

 

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