実は姜維は不本意な降伏をしていた?姜維を考察してみる


 

姜維と孔明

 

姜維(きょうい)は蜀(221年~263年)の将軍です。最初は(220年~265年)の将軍でしたが、諸葛亮(しょかつりょう)の第1次北伐で降伏して、以降は蜀の将軍として従軍します。

 

さて、小説『三国志演義』で諸葛亮は姜維の母親を人質にして、彼に降伏をせまります。

 

曹操にヘッドハンティングされる徐庶

 

やっていることは、徐庶(じょしょ)の母親を人質にとった曹操(そうそう)と一緒です・・・・・・それでは史実はどうだったのでしょうか?

今回は正史『三国志』の姜維の降伏について解説していきます。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陳寿の『三国志』の姜維の降伏

晋蜀の産まれ 陳寿

 

まずは陳寿(ちんじゅ)が執筆した正史『三国志』の姜維の降伏について。蜀の建興6年(228年)に諸葛亮は魏に対して第1次北伐を行います。この時、天水太守は部下の姜維・梁諸(りょうしょ)梁虔(りょうけん)尹賞(いんしょう)が謀反を企んでいると疑ったので逃亡して、上邽(じょうけいまで逃げました。

 

孔明と姜維

 

姜維たちは急いで太守を追いかけますが、城門を閉じて入れてくれません。仕方なく冀県まで戻るも、そこも城門を閉じていたので姜維たちは、やむを得ず諸葛亮に降伏しました。

 

魏から蜀に下る姜維

 

姜維はその後、母と生き別れになります。つまり陳寿の『三国志』における姜維の降伏は、諸葛亮の計略ではなく上司の猜疑心により生じた想定外の事態でした。

 

 

 

魚豢の『魏略』による姜維の降伏

裴松之(歴史作家)

 

次は陳寿の『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし)が史料として採用した『魏略』という書物に記載されている姜維の降伏。『魏略』は魏に仕えていた魚豢(ぎょかん)という人物が編纂した書物であり戦乱により散佚しました。しかし、中華民国時代に20分の1の復元に成功しています。

 

魏の将軍、郭淮(かくわい)

 

話が逸れたので戻しますが、『魏略』に記されている姜維の降伏は以下の通り。天水太守の馬遵(ばじゅん)は姜維や郭淮(かくわい)と一緒に西方から洛陽まで巡察していました。

 

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

すると諸葛亮が来たと報告が入ったので郭淮は上邽の守備に回ります。馬遵は民が混乱に紛れて反乱・降伏する可能性を考えて郭淮についていきます。

 

「お前太守なら自分の土地を守れよ!」と言いたくなりますけど先に進みます。

 

姜維は「お待ちください、馬遵殿」と止めますが、「うるせい、てめえも逆賊か!」と馬遵から逆ギレされて逃げられます。途方に暮れた姜維は残った上官の子脩(ししゅう)と話し合った結果、冀県に戻ります。

 

ところが、冀県の民は降伏する気満々であり、姜維と子脩に降伏の使者の役目を押し付けます。こうして姜維は諸葛亮に降伏しました。

 

陳寿の『三国志』と内容に違いがありますが、共通しているのは想定外の降伏だったことです。

 

山頂に陣を敷いた馬謖

 

でも、降伏とはそんなものですね・・・・・・その後蜀は馬謖(ばしょく)が負けて冀県も魏に奪還されました。

 

姜維

 

一方、姜維は故郷に戻るにも戻れません。この時、姜維の母と妻子は魏に捕縛されますが、姜維は不本意な投降をしたことを知っていた魏は彼の家族を殺さずに人質として生かしておきました。

 

どっちの史料が正しい?

降参する姜維

 

それでは『三国志』と『魏略』どちらが正しいのでしょうか?2つの史料を比べると登場人物の相違はありますが、結論は姜維が不本意な投降をしたことに変わりはありません。

 

裴松之は『魏略』に関して「本伝(姜維伝)と内容が違うよ」とケチをつけていますけど、おそらく陳寿が『魏略』以外にも複数の史料を確認して、その中から取捨選択した結果出来たのが、『三国志』姜維伝です。

 

2つの史料に相違があるのは当たり前のことです。『魏略』の執筆者の魚豢についての詳細なことは不明ですが、魏に仕えていたので魏の人物に関する情報を持っていたことは確かです。よって、筆者は『三国志』も『魏略』も正確なことを伝えていたと考えています。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が姜維の降伏に関しての記事でした。今回とりあげた魚豢の『魏略』は「魏志倭人伝」との関連で昔から研究者の間で注目されている史料です。

 

三顧の礼 ゆるキャラ 孔明

 

また、魚豢は『魏略』に中に劉備(りゅうび)と諸葛亮の有名な「三顧の礼」の異説も記しています。三顧の礼の異説に関しては、いつかまた解説します。

 

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