【極悪】司馬懿はいかにして屯田制を食い物にしたのか?

2019年8月13日


 

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司馬懿

 

当初は曹操(そうそう)の要請にさえ仮病を使って応じず、(しび)れを切らした曹操に「ぬっころすぞこの野郎!」と言われ渋々仕えた司馬懿(しばい)。最初は、ただの司隷の豪族に過ぎなかった司馬一族は、司馬懿が高平陵(こうへいりょう)の変で政敵の曹爽(そうそう)を追い落とし人事権を一手に握り、屯田を食い物にする事により、急速に王朝を興す程の富を蓄えます。

 

司馬懿と曹爽

 

そこまでは、三国志に詳しい人ならよく知る内容ですが、では、司馬懿は具体的にどのように屯田を食い物にしていったのでしょうか?今回は、マニアックもマニアックな司馬懿が屯田を握る顛末を解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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独立性が高かった民屯

 

曹操が本拠地の許で、最初の屯田を開始したのは建安元年でした。当初は軍屯(ぐんとん)ではなく民屯(みんとん)であり、ここは大司農(だいしのう)に属し屯田を司る(ちつ)二千石の典農中郎将(てんのうちゅうろうじょう)が直接の責任者でした。

 

この典農中郎将というのは、大きな郡や国に屯田がある場合にのみ置かれ、小さな郡国では典農校尉(こうい)が県の場合には典農都尉(とい)が置かれています。ただ、この典農中郎将、大司農府に属しているものの、太守と同じように徴税や民政を司りました。つまり、一応官僚機構に属していながら独立性が高い組織だったのです。

 

 

 

文帝時代から農業以外にも手を出す民屯

皇帝に就任した曹丕

 

この典農中郎将をTOPにする民屯の機構は、文帝や明帝の時代になると増々独自性を強めていき中央から乖離(かいり)して腐敗していきました。典農中郎将は民屯の部民(べみん)を支配し、まるで豪族の荘園の小作人のように搾取(さくしゅ)し始めます。というより典農官になる人材は、やはり地方豪族が多かったので、自分達が故郷でやったような荘園経営(しょうえんけいえい)を民屯でもやりだしたのでしょう。

 

しかも、典農中郎将は、文帝の時代の初めに部民を農業以外の商工業に従事させても良いという特権を得る事が出来ました。これにより、典農官は、民屯の部民を自由に搾取して商業・工業に従事させ利益を吸いあげる事が出来るようになります。

 

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

 

民屯部民には、兵役免除の特権があった!

兵士

 

でも、ここで疑問が湧いてきます。典農官に搾取されて、どうして民屯の部民(べみん)は黙っていたのでしょうか?

 

逃げるなり直訴するなり、搾取を止める何らかの方法があったように思えます。実はそこにも事情がありました、民屯の部民は軍屯や一般の農民と違い兵役を免除される特典を得ていたのです。この特権がある限り、多少生活が苦しくても、死ぬ確率が高い兵士になるより民屯の部民である方がずっと安全でした。

 

事実、晋の時代になると軍屯や一般人民と違い兵役を免除されている民屯部民は公平・平等の観点から問題視されるようになり、ついに民屯は廃止され軍屯だけになります。誰だって危険な戦場には行きたくないし、その意味で民屯に留まるのは部民にとって大きなメリットがあったのです。

 

 

美味しい民屯を司馬懿は逃さなかった

司馬懿

 

民屯が美味しいという事は、司馬懿は重々承知していたでしょう。そして、西暦249年、高平陵の変でライバルである曹爽一派を追い落とした司馬懿は人事権を握りすぐに九品官人法を改正。

 

人材登用の権限を持ち、郡に置いていた中正官(ちゅうせいかん)の上に大中正(だいちゅうせい)という役職を置きました。この大中正を任命するのは、もちろん司馬懿です。司馬懿は、こうして豪族の中で自分を支持する人間を大中正を通して引き上げ、民屯部民を搾取できる典農官のポストに任命していきます。

 

司馬昭

 

 

晋書文帝紀によると、司馬懿の次男の司馬昭(しばしょう)は正始年間(240年~249年)の初年、洛陽典農中郎将(らくようてんのうちゅうろうじょう)になり、奢侈(しゃし)による重税に苦しめられていた洛陽の民屯部民の負担を軽くし、部民はそれを喜んだという記述があります。司馬昭は典農中郎将を経て、兄と同じ散騎常侍(さんきじょうじ)に転任していきました。

 

逸話の真偽は置くとして、司馬懿が典農官に目をつけていたのは事実です。そうでないなら次男を典農中郎将には任命しないでしょう。かくして、司馬懿に引きたてられた豪族は司馬懿に搾取した儲けの一部を上納。司馬氏は、政治的求心力を強めると共に莫大な富を蓄えていくのです。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

あざとい、そして狡猾(こうかつ)、ここではただ戦が上手いだけではない司馬懿の豪族としての手腕の一端を見る事が出来ます。でも、これくらいの事が出来ないと、きっといつまでも曹氏の風下に立つしかなかったんでしょうね。

 

 

儲けるだけ儲けて民屯を廃止した司馬氏

三国志を統一した司馬炎

 

一方で司馬懿は曹芳の時代に対呉蜀対策で、淮河(わいが)と関中での軍屯を提言し農政官だった鄧艾(とうがい)に命じて、淮河で灌漑(かんがい)をさせて水を引き不毛地帯を穀倉地帯に変えました。曹芳(そうほう)時代に拡充された軍屯により、魏は圧倒的な物量を展開できるようになり天下統一に決定的な一手を打つ事になったのです。

 

鄧艾

 

 

その後、司馬懿は251年に死去しますが、後を継いだ息子の司馬師、司馬昭が民屯の利権を引き継ぎます。そして、蜀を滅ぼし司馬炎(しばえん)が曹魏より天下を禅譲させて晋を建国すると、上記で説明したように民屯に兵役免除があるのは不公平として民屯を廃止したのです。

 

まあ、色々、もっともらしい事を並べていますが、自分達と同じように民屯で肥え太る豪族を出さない為の予防措置(よぼうそち)である事は明白でした。このようにして、司馬氏は典農官のポストを餌に豪族の支持を取り付けて曹魏支配を切り崩し同時に民屯からあがる利益を懐に入れる事で、晋王朝の礎を築いたのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

典農官というのは、一応、九卿の大司農の属官でありながら徴税権を駆使して、太守同様の働きをするなど軍と密接に関係していました。これは曹操が民屯に関しては教条主義に陥らないように、臨機応変な対応を望んでそうしたのでしょうが、裁量が広くて有能だとやっぱりズルをやりだして、文帝・明帝期には、かなり自分勝手な私益追求組織になり腐敗してしまっていました。

 

司馬懿にすれば、私利私欲に走る奴らが典農官になるよりも、俺がポストを押さえる方が天下の為になるという算段があったのか明確な事は何も言っていないので推測でしかないのですが・・

 

参考:魏の屯田制 特にその廃止問題をめぐって 西嶋定生 PDF

出身地でわかる三国志の法則 (光栄カルト倶楽部) 単行本 – 1995/1/1黄巾イレギュラーズ

晋書:文帝紀

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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