蜀軍の重要な軍師でありながら、とにかく「性格が最悪だった」と言われている法正。
何が最悪だったかというと、もともと彼は益州の劉璋の配下だったのですが、劉備に仕えて偉くなってからは、劉璋時代からの何らかの恨みを持っている相手を勝手に逮捕殺害していたとのことです。ちょっと普通じゃありません。
しかし劉備軍の一部将がそのことを諸葛亮にチクると、「法正はあんなに有能で昔から我々を何度も助けてくれたのだ、あいつの好きなようにさせてやるしかあるまい」というような珍しく歯切れの悪いことを言って、取り合ってくれなかったそうです。
「そんなに法正のことを高く買っていたのか!さすがは孔明!」
となりますでしょうか?
自分が進言した一部将の気持ちになってみると、どうでしょう?
「この軍、仕えていて大丈夫かな」
と心配になってくるのではないでしょうか?
しかし法正のほうにも、蜀軍については言いたいことがあったはず。
益州攻略から漢中攻防戦まで、よく見ると法正一人が凄まじい働きをしているのです。
この時期の法正より働いている人といえば、もはや諸葛亮孔明その人くらいしか!
って、それはそれでまた
「この軍、仕えていて大丈夫かな」
と呟く一部将の声が聞こえてきますが。
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この記事の目次
益州攻略から漢中争奪戦における法正の仕事ぶりを年表風に回顧しよう!
ここで法正の活躍を年表風に整理してみましょう。
西暦211年(法正35歳):張松と組んで劉備を益州に招き入れる策を開始。このころ「とっとと劉璋暗殺案」を進言するが、これは劉備に却下された模様
西暦212年(法正36歳):いつのまにか劉備軍について入蜀の手伝い。特に龐統とコンビを組んでいた模様
西暦213年(法正37歳):益州の地理情報を劉備に伝えて数々の要衝の攻略に貢献。劉璋の立場から見るとひどい裏切りっぷり。ちなみにこの頃に龐統が戦死し法正はめちゃくちゃ忙しくなる
西暦214年(法正38歳):成都に追いつめられた劉璋に対する降伏勧告の手紙を起草したり、劉璋の焦土作戦をハッタリだと見破ったり、劉備軍の頭脳として大活躍。劉璋の立場から見るとひどい裏切りっぷり
西暦215年(法正39歳):益州を攻略した劉備に重用され戦後処理を進めていた。私怨があった相手を逮捕殺害するのに忙しかったのはこの時期と推測される
西暦216年(法正40歳):漢中を守っているのが夏侯淵と見破り、「あいつが守っている今が漢中奪取のチャンス」と劉備に進言。献策としては当たっていたがどうも失礼である
西暦217年(法正41歳):献策が採用されて漢中攻略作戦が始まるが、人材難ゆえ、けっきょく法正自身が前線の軍師をやらされる
西暦219年(法正43歳):定軍山の戦いで大勝。夏侯淵を黄忠が討ち取れたのは法正の作戦による
上記の次第で、この法正がちょうど働き盛りの30代後半から40代前半の時期に、劉備軍はまさに絶頂、得意満面というところでした。定軍山の戦いに至っては、劉備軍が正面からの会戦で曹操軍に勝った実に珍しいケースであり、その立役者が法正となります。
そして経歴の続きを見てみると、
西暦220年(法正44歳):いつのまにか病死
こ、これは!
法正の死は過労死?現代日本の厚生労働省データとも一致する!
この唐突な死亡はなんなのでしょうか?
気になるデータとして、そもそも厚生労働省が出している『過労死等防止対策白書』では、「過労死・過労自殺」が最も多いのは30代~40代の男性で、特に過労自殺につながりやすいのは「コンサルタント系の職種」とのこと。
コンサルタント系の仕事=軍師
と考えると、法正は典型的な過労死ケースの可能性があるのでは?
法正は仕事が好きすぎのモーレツ系だった?
そもそもこの法正、35歳で突然現れるまではほとんど名前が出てこない、という点も、なんだか典型例です。才能があるのに(たぶん人格のせいで)20代で目が出なかった人間が、30代になってから転職に成功すると、スパークしたように仕事が面白くなる場合があるものです。
この法正については、かの曹操が「あの法正という人材がほしかったのに、取り損ねた」というような発言をしたと伝えられていますが、たぶん法正の立場から見ると劉備軍のブラックぶりがむしろ性に合ったのかもしれません。
現代でも、いますよね、その気になれば安泰な大企業にいつでも転職できるほどの能力を持ちながら、ガタガタの中堅企業の中で「お前がこの会社を支えているのだ、お前があっての私だ」と社長に言われながら働くほうが好きだという人が。
そしてそういう人に限って、早い年齢で体を壊すもので。
まとめ:みんな法正の働きすぎを知っていたので気を使っていたのかもしれない
こうしてみると、法正の人格面での評判の悪さも、それに対する諸葛亮の歯切れの悪さも、なんだか違うふうに見えてきます。素行の悪い法正を劉備や諸葛亮が放置していたのも、「法正を働かせすぎている」という自覚があったので、気を使っていたからでは?
法正には死ぬほど働いてもらわないと劉備軍は回らない状況だったので、普段の素行については何も口出しができない状況ということだったのかもしれません。
そして法正はその期待に応え、漢中の奪取という殊勲をもたらすのですが、その翌年に突然亡くなってしまいました。
その後に劉備が「法正がいなくなった以上、これからは軍師ナシでわし一人でもやれるようにならんとな」と張り切って出かけた夷陵で大敗してしまうと、蜀の人材不足は決定的に天下に知れ渡り、残された諸葛亮が一人で全部をやる羽目になり、こちらはこちらで過労死同然の死を迎えるのでした。
その後の蜀にて繰り返されるのは、「ああ法正が生ていてくれたら」「ああ丞相(諸葛亮)が生きていてくれたら」の嘆息ばかり。
諸葛亮が法正の傍若無人を止めないのを見て
「この軍、仕えていて大丈夫かな」
とつぶやいたかの一部将も、老境に差し掛かり、蜀の狭路を守りながら、こう呟いたことでしょう。
「やっぱり、ダメだったみたい」
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