袁紹が負けた原因はオトモダチ軍閥だったから?官渡の戦いを考察

2019年8月15日


 

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官渡の戦い 騎馬兵

 

後漢(ごかん)(25年~220年)の建安5年(200年)に袁紹(えんしょう)はライバルの曹操(そうそう)と天下の覇権をめぐって戦いました。有名な「官渡の戦い」です。

 

激しい戦いの結果、袁紹は敗北して撤退に追い込まれ、2年後の建安7年(202年)にこの世を去りました。ところで袁紹の敗因は何だったのでしょうか?

 

今回は正史『三国志』から袁紹の敗因を検証します。

 

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実際、負けるはずがなかった袁紹

袁紹

 

実は袁紹は曹操より圧倒的に有利でした。

 

「だからお前はどうして、みんなが知っていることをわざわざ言うんだ!」

 

読者の皆様の怒りは、ごもっとも。袁紹が曹操より有利だったのは有名な話です。しかし、ここで改めて整理させてください。まず袁紹は汝南郡では屈指の家柄の人物。袁紹の出身の汝南郡には、多くの「門生」・「故吏」がいました。

 

「門生」は特定の一族のもとで儒教を学んだ人々であり、「故吏」は特定の一族が直々に呼び寄せた部下です。

 

戦争をせずに宴会ばかりしている韓馥

 

袁紹から冀州を奪われた韓馥(かんふく)も、かつては袁紹の故吏です。彼らはただの知識人ではなく、武力で曹操に対抗する連中でもあり曹操をかなり苦しめました。

 

袁紹を説得しようとする沮授

 

さらに、袁紹のもとには郭図(かくと)辛評(しんぴょう)などの預州潁川郡出身の名士、沮授(そじゅ)田豊(でんぽう)などの冀州出身の名士もいます。みんな秀才で名高い人です。

 

公孫瓚を倒した袁紹

 

兵も黄巾賊の残党や公孫瓚(こうそんさん)の討伐で手に入れた精鋭ばかり。つまり、改めて整理すると袁紹は本当に負けるはずがなかったのです。

 

 

 

敗因(1)帝になる機会を逃す

袁紹

 

官渡の戦いの前年の建安4年(199年)に、袁紹の部下の耿包(こうほう)が「漢王朝は終わっている。天に従い袁一族が皇帝になるべし」と袁紹にアドバイスします。

 

袁紹は「マジすか!?」とちょっと乗り気になって会議にかけますが、部下のほとんどが漢王朝の擁護論者でした。というよりも部下は従弟の袁術(えんじゅつ)が失敗しているので、それで止めたと筆者は推測しています。

 

「耿包の言っていることはヤバイですよ。とりあえず殺しておきましょう」と部下から提案されたので、袁紹も「そだねー」とカーリング女子みたいに相づちを返しました。

 

こうして耿包は刑場の露と消えました。袁紹は帝になる機会を失ったのが敗因の1つです。

 

 

敗因(2)オトモダチ軍閥だったから

 

袁紹の欠点に関して元・部下の荀彧(じゅんいく)が証言しています。証言の内容が長いので今回は省きますが簡単にまとめますと以下の通りです。

 

(1)曹操と違って唯才主義の人事を行わない

(2)決断力に欠けている

(3)議論倒れの名士を集めて話にならない

 

しかし荀彧の内容はマイナスに方面の見方。プラスに見ると以下の3点にまとめられます。

 

(1)名士の意見と広く聞く

(2)儒教に従う

(3)名士の名声を尊重

 

これは現代の社会だったら非常によい話です。特に社員の意見をしっかりと聞き入れる理想の社長として袁紹はやっていけるはずです。ただし、袁紹が生きた時代は乱世。1人1人の話をゆったりと儒教なんかに従って聞いている暇はありません。

 

袁紹にお茶を渡す顔良

 

それなのに袁紹はゆったりと儒教的名士の相手をしました。要するに袁紹自身が部下である名士と同じ価値観・立場にいたのです。

主君が部下と同質になるのは非常に危険なことであり、権力の確立すら危うくなります。

 

つまり、袁紹軍は俗に言う「オトモダチ軍閥」!

その結果が、官渡の戦いの敗北と後の部下の後継者争い招いたのです。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

今回は袁紹の敗因について解説しました。袁紹は君主権力の確立が出来なかったとはいえ、公孫瓚を倒したところまでは認めなければいけないと思います。

そこは褒めておきましょう。

 

 

※参考文献

・宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』(平楽寺書店 1964年)

・山口久和『「三国志の」迷宮 儒教への反抗 有徳の仮面』(文春新書 1999年)

・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社選書メチエ 2012年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
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