魏の名将である于禁、順調に手柄を重ねてきた于禁ですが、関羽に攻められた曹仁の救援に樊城に向かったのが運の尽き、漢水が未曽有の長雨で決壊し、舟を持たない于禁の七軍は水没しました。
于禁はやむなく関羽に降伏してしまい、曹操には愛想を尽かされ、数年後、呉から魏に帰還すると、文帝曹丕の意地悪により曹操の高陵で自分の土下座絵を見せられ憤死しました。
この逸話はよく知られているのですが、よく考えると奇妙な話なのです。
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当時の墓は埋葬者の柩を安置すると埋められていた
于禁は曹操の高陵に描かれた関羽にドゲザーする自分の絵を見て、悔しさと恥ずかしさで病を発して憤死したと言われます。
でも、これはよく考えると奇妙な話です。
何故なら曹操の高陵は地下に存在し、曹操の柩を収めた後は、入り口を埋めてしまい、盗掘を防ぐようにしたからです。
墳墓の内部に絵が描かれているのは、よく知られていますが、于禁が魏に帰ってきた頃には曹操はすでに葬られています。
その時点で地下墳墓への入り口は閉ざされていたはずですが、于禁はどこで自分が辱められた絵をみたのでしょうか?
死者用の住宅があった三国志の時代
そこで、三国志魏志于禁伝の原文を見てみると、以下のように書かれています。
先令北詣鄴謁高陵 帝使豫於陵屋畫關羽戰克 龐悳憤怒 禁降服之状 禁見 慚恚發病薨
翻訳:于禁は曹丕に曹操の高陵に参詣する事を命じられた。
帝は予め使いを出し、陵屋に関羽が戦争に勝ち、龐悳(龐徳)は憤怒し、于禁は降伏した画を描かせた。
于禁はそれを見て、悔しさと恥ずかしさで病を発して死んだ。
ここで見ると、陵屋という言葉が出てきます。
屋というのは、屋根を持つ建物を意味するそうで、やはり、地下に埋められた高陵ではないようです。
中国古代の生活史という本によると、後漢の時代には、墓の近くに死者用の住宅を建てる習慣があったと出てきます。
それは、伝統的な回廊を巡らした住宅で、生きている人間が住むような立派な造りをしていました。
生きている人間の住宅との違いは、玄関の脇に銅鑼が吊り下げられそれを鳴らしてから入る事と、第二の門をくぐった先に、
供え物を置く台がある事だけで、使わないのにトイレまで備え付けられていた本格的な住居でした。
おそらく于禁が参詣した陵屋とは、この曹操の死後の住居だったのではないかと推測します。
曹丕は、中庭の壁にでも大急ぎでドゲザーする于禁を描かせて、何食わぬ顔で于禁に参詣させたのでしょう。
曹丕は史上初めて関羽の絵を描かせた人物
しかし、于禁伝の記述を読む限り、曹丕は手の込んだ人物のようです。
于禁の土下座のシーンだけを描かせればいいものを、勝ち誇る関羽と憤怒する龐徳まで描かせており、それが樊城の戦いである事を伝えています。
それが、曹操の死後の家である以上、絵師は一流の人物だったでしょうし陵屋に描かれたのは、史上最初に描かれた関羽像でもあります。
何しろ、関羽が死んだのは西暦220年、于禁が死んだのは221年です。
陵屋に描かれたとされる関羽像は、リアルタイムで描かれた関羽で、もしかすると実物の関羽を見た絵師が描いたかも知れません。
地下に埋められた曹操の墳墓と違い、地表に存在した陵屋は、1800年の歳月の間に、跡形もなく消えてしまいました。
もし、残っていれば、関羽と龐徳と于禁の当時のリアルタイムで描かれた姿が現代も見られたかも知れないのに残念な事です。
その後の土下座絵の使い道
さて、樊城の戦いを絵師に描かせて于禁を憤死させた曹丕ですが、まさか、ただこれだけの為に絵を描かせたとは思えません。
この絵は、その後も陵屋に残り続けたのではないかと考えます。
中国では、刺秦王画像石拓片のような秦王政を暗殺しようとした暗殺者荊軻が匕首を投げた劇的な瞬間を刻んだ石刻画などがあります。
また、丁蘭木偶という儒教的故事に因んだ石刻画も出土しています。
この丁蘭という人は桁外れの親孝行で、中国の親孝行の教科書である二十四孝にも登場します。
どんな話かというと、丁蘭という親孝行な青年が早くに両親を亡くし、どうしても親孝行がしたいばかりに、
両親の木像を彫って生前の両親同様に仕えていました。
しかし、それに付き合わされた丁蘭の嫁は、ただの父母の木像に額づくのがばかばかしくなり、
いたずらで木像の指を針で刺したところ、その木像は指から出血し、目から涙を流しました。
それを見た丁蘭は、嫁の仕打ちを理解し彼女に暇を出したというオカルト話です。
なんだか、キリストやマリア像から血の涙が出たみたいなアンビリバボーな事が思い起こされますが、
もちろん当時これはオカルトではなく、丁蘭の親孝行がただの木偶に父母の魂を呼び戻したみたいな感動話として伝承されました。
絵画に、そのような教訓を込める習慣を考えると、曹丕は樊城の戦いの絵を、余力を残して降伏してはいけないよという故事として
後世に伝えようとしたのかも知れません。
だとすると執念深い曹丕の底意地の悪さ恐ろしやという事であり、そのような歴史故事として土下座絵が残らなくて
于禁は死後、ホッとしたかも・・
三国志ライターkawausoの独り言
ただ、この樊城の戦いの様子が直接に壁に描かれたか、あるいは、絹のようなキャンパスに描かれたかによっても話が違ってきます。
もし、壁に直接描かれたなら、明らかに于禁の後に参詣する人間にも見せる意図があったと考えられますが、もし絹に描かれたものなら、取り外しが出来るわけなので、于禁に見せた後に、さっさと取り外してしまった可能性もあります。
後者が理由なら、今でもどこかに樊城の戦いの絹画が人知れず眠っているかも知れないですね。
参考文献:正史三国志
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