甘寧は呉(222年~280年)の将軍です。最初は荊州の劉表や彼の配下の黄祖に仕えていましたが身分が低いことから重用されることはありませんでした。
そのため孫権に身を寄せたところ、周瑜や呂蒙のおかげで出世することに成功します。ところで甘寧は赤壁の戦いでどの程度の活躍をしたのでしょうか?
正史の甘寧はその業績が、ほとんど記されていないので、今回は小説『三国志演義』をもとに赤壁の戦いにおける甘寧の活躍を解説します。
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蔡勲を討つ
赤壁の戦いの前哨戦に蔡瑁率いる水軍が呉に挑んできました。蔡瑁は荊州の劉表に仕えていた豪族であり劉表の死後、曹操に降伏しました。蔡瑁は水軍に長けていることから、曹操により水軍の総指揮を委ねられました。蔡瑁は弟の蔡勲と一緒に出陣。甘寧も周瑜の総指揮のもと出陣します。
甘寧は呉の、蔡勲は曹操軍の先鋒となります。「この俺が相手だ!」と蔡勲は自信満々で出てきました。一方甘寧は、「どうやら、この甘寧のことを知らないようだな?ならば、もう用は無い!」と言って弓矢を放ちます。矢は見事に蔡勲に当たり、彼はあっけなく絶命!こうして初戦は呉の勝利に終わります。
黄蓋の苦肉の計
さて、しばらくして、周瑜の計略により蔡瑁は曹操の手にかかり殺されました。計略に気付いた曹操は仕返しに蔡瑁の甥の蔡和・蔡仲を呉に送ります。
2人には偽装投降をしてもらい、呉の内部情報を流すことを伝えました。蔡和・蔡仲は叔父の蔡瑁を殺された恨みをネタに周瑜に投降しましたが、周瑜は2人がウソをついていると最初から疑っていました。2人が妻子を伴っておらず、兵士しか連れていないことから不信感を抱いたのです。
曹操軍が偽装投降ならば呉も偽装投降である。そこで周瑜は呉に3代に渡り仕えている黄蓋と示し合わせて彼を公衆の面前で罵倒して、棒で叩く刑罰にします。もちろん手を抜かず、蔡和・蔡仲に見えるようにやります。
2人はすっかり信用しました・・・・・・
甘寧と闞沢
大けがをして運ばれた黄蓋は、呉の知恵者である闞沢に頼み彼も偽装投降の仲間に入れました。承諾した闞沢は黄蓋の手紙を持って、曹操軍の陣まで行きます。最初はだまされるつもりは無かった曹操でしたが、口が達者である闞沢の前に負けてしまいます。また蔡和・蔡仲からの手紙を読んで、すっかり信用しました。
呉の陣に帰った闞沢は次に甘寧を仲間に入れます。なぜ甘寧が仲間になったのか分かりませんが、彼は喜んで引き受けます。それからしばらくの間、甘寧と闞沢はわざと周瑜や孫権の悪口を陰で言います。もちろん、近くで蔡和・蔡仲が聞いているのは知っていました。
そろそろ頃合いだ、と感じた甘寧は「お前ら、何をしているんだ?」とわざと声をかけました。びっくりした蔡和・蔡仲でしたが、「実は我らの正体は・・・・・・」と勝手にペラペラとしゃべりだします。
ネズミが罠にかかったと思った甘寧と闞沢は喜んで、「君たちの強力があれば、呉を滅ぼすことが出来る」と2人を密談に加えました。
烏林で曹操軍を撃退
また、しばらくして諸葛亮が風を起こしてくれたおかげで呉は火攻めの準備が完了しました。諸葛亮には逃げられて悔しがった周瑜でしたが、とりあえず怒りは蔡和・蔡仲を斬って終了することにします。
「何をされる、周瑜殿!」と蔡和は叫びましたが、周瑜は問答無用で斬って戦の生け贄にしました。蔡仲も黄蓋により殺されました。
こうして呉の火攻めにより曹操軍は大敗します。有名な「赤壁の戦い」です。曹操は命からがら脱出。烏林まで逃げますが、そこで甘寧に見つかります。
「待て、曹操!甘寧が相手だ」
甘寧は次々と敵を斬っていきました。ところが、敵の数が多くて残念なことに曹操を取り逃がしてしまいました。
曹操はその後、趙雲・張飛からも追撃されて、最終的に関羽に命乞いをして南郡の曹仁のもとまで落ち延びるのでした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が小説『三国志演義』における赤壁の戦いでの甘寧の活躍でした。彼は烏林の活躍よりも、闞沢と一緒に蔡和・蔡仲をだました功労者でしょう。筆者は甘寧に関しては上述の話があったせいで豪傑というよりも、戦略系の武将というイメージが定着していました。
大学時代に前歴が海賊と知った時は、びっくりしました。少しイメージが違うと思ったけど、それも格好いいなと感じました。
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甘寧が好きという人はコメントをお待ちしています。
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