曹操・曹丕・曹叡・曹芳の4代に渡り仕えて、蜀(221年~263年)の北伐を防いだり、遼東の公孫氏を滅ぼすなどの功績を挙げて後の西晋(280年~316年)の基礎を築いていきました。
さて、この司馬懿には仮病という得意技があります。そして、恐ろしいことに彼はこの仮病で殺人まで行っていました。今回は司馬懿の仮病殺人について解説します。
「司馬懿 病気」
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司馬懿は曹操にスカウトされるが・・・・・・
司馬懿の家は漢代(前202年~後220年)で名門の家柄でした。曹操は才能主義として有名ですが、決して名門をとらないわけではありません。
司馬懿の兄である司馬朗もすでに曹操の配下に迎え入れられていました。司馬朗は12歳の若さで古典の試験を受けて合格した天才です。大人になっても古典の勉強をやめずに、古典にあることをそのまま実行に移そうとする理想を抱いていました。
良い言い方をすれば先人の教えを大切にする人、悪い言い方をすれば流行に乗れない時代遅れの人。司馬朗は実際に千年以上前の周の行政区画の復活を曹操に提案しています。日本で例えるのなら都道府県を廃止して、「藩」に戻すような感じです。
曹操は司馬朗の意見を聞き入れましたが、さすがに全てを採用することはありません。全て聞いていたら魏が時代遅れの国になる可能性があったからです。さて、弟の司馬懿についてですが、彼は性格が激しくもそれを隠すのが上手だったと記されています。要するに世渡り上手です。
建安5年(200年)曹操は官渡の戦いで袁紹を破って天下の覇権を握ることに成功しました。建安6年(201年)に曹操は新たなる人材登用につとめます。すると荀彧から司馬朗の弟の司馬懿の話を聞かされて興味がわいて、得意のスカウトにかかることにしました。
さて、曹操の使者が来たので応対した司馬懿でしたが、もう後漢(25年~220年)の命運が尽きると分かっていたので今更、仕えても意味が無いと思います。ここは丁重にお断りをすることにしました。
「私は手足がしびれる病気になりました。ありがたい話なのですが、出仕はお断りさせてもらってもよろしいでしょうか?」
病気なら仕方ないと思って使者は帰ります。曹操はさすがに怪しいと感じて密偵を放ちました。もちろん司馬懿の病気がウソだった時は殺してよい、と命令しています。ところが司馬懿も曹操のやることは読んでいました。ベッドから全く起きずにじっとしていたので密偵もだまされて帰りました。
まさかの口封じ
密偵が帰っても司馬懿の仮病ライフは続きます。しかし、ある日のことアクシデントが発生しました。
その日、司馬懿は本を外に出して虫干ししていました。今では、ほとんど見ない光景ですけど、昔は本に虫が付かないように外に出して日光に当てていました。するとそこへ、にわか雨が降ってきます。
人を呼んでも誰も来ない。仕方ないと思って司馬懿は外に出て本の片付けを始めました。だがその時、ちょうど女の使用人がやって来ます。「今来たのかよ!」と司馬懿はツッコミを入れたかったでしょう。
「あれ、旦那様は手足がしびれて立てないのでは?」と女は首をかしげます。
やばいと思った司馬懿は、女の口から噂が広まることを恐れてその場で斬ってしまいました。これにて一件落着・・・・・・していませんね。斬られた女は可哀そうです。
三国志ライター晃の独り言
結局、建安13年(208年)に曹操は「逮捕してもいいから、司馬懿を連れてこい」と言ったので、司馬懿は仕方なく出頭します。
司馬懿が任命されたのは曹丕の教育係でした。出世コースであるのは間違いありません。ただし、司馬懿は頭角は出さずに大人しくしています。
下手に頭角を出すと、君臣の別が付いていない人間ということで許攸や楊脩などのように粛清されると感じていたのでしょう。
また、曹操も存命している間は司馬懿を重用することはありませんでした。司馬懿が才能におぼれて墓穴を掘るのを待っていたのか、それとも本当に彼の才能を恐れていたのでしょうか?ちなみに、筆者は両方と考えています。
※参考文献
・石井仁『魏の武帝曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
・井波律子『裏切者の中国史』(講談社選書メチエ 1997年)
・狩野直禎『「三国志」の世界 孔明と仲達』(清水書院 1984年)
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