三国志の一番のハイライトと言ってもいい、「赤壁の戦い」で孫権と劉備の連合軍が、曹操の魏軍を打ち破ると、3国の接点となる荊州が勢力争いの最重要地点となります。
赤壁での余勢を駆って、呉は周瑜が先頭となって魏の江陵(南郡)へと逆侵攻。呉にとっては江陵を押さえられれば、荊州に足がかりが作れるだけでなく、赤壁の戦いで獲得した江夏と並んで長江の北側に防衛ラインを押し上げることになります。
しかし、魏にとっても大都市襄陽のすぐ南に位置し、物資の拠点でもあった江陵は決して譲れない都市。許都に戻るとき、曹操は守備に定評のある曹仁を、行征南将軍に任命して江陵に残していました。
両軍きっての名将周瑜と曹仁のあいだで行われた江陵の攻防戦と、戦況と周瑜の人生を大きく変えた「一本の矢」について紹介します。
「周瑜 矢」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:周瑜の戦歴がスゴイ!周瑜の戦歴を考察
関連記事:名将周瑜は政治のセンスもあった?戦に強いだけじゃない周瑜を考察
名将曹仁
曹操の四天王の1人、曹仁。
『三国志演義』では夏侯惇や夏侯淵に比べると少し地味な存在で、劉備の軍師になったばかりの徐庶に、鉄壁の八門金鎖の陣を見事に破られるなどあまり目立った活躍がありません。しかし、『正史三国志』によると曹仁はかなり有能な武将だったようです。
曹操が反董卓連合の旗揚げをしたときも、四天王の中で曹仁だけは初め自分で兵を率いて暴れまわっていました。曹操の配下になってからも、陶謙の配下呂由を破り、呂布の配下の劉何を捕縛し、張繍や劉備を撃退するなど数多くの武功をあげています。
他の四天王が官位をもらっていた中で、曹仁だけ行征南将軍に任じられるまで任官がなかったのは、曹操が手元に置いておきたい武将だったからかもしれませんね。赤壁の戦いで大惨敗をした後の江陵を任せたのも、戦略的な殿のような役割で、それだけ曹仁を信任していたことがうかがえます。
曹仁、寡兵で牛金を救い出す
呉軍を指揮するのは、三国志の中で屈指の智謀と統率を誇る周瑜。赤壁の戦いで呉と蜀の連合軍が勝利できたのも、彼の力によるところがかなり大きかったでしょう。周瑜はまず数万の軍勢のうちの1000ほどを、江陵の城の近くまで進めます。
前哨戦となるこの戦いに、魏軍は牛金が300で迎え撃ちに出ますが、あっという間に呉軍の先行隊がこれを包囲します。孤立した牛金軍を陳矯たちは、もう救えないだろうと見切ります。
しかし、曹仁は数十騎で城外に打って出て、乱軍の中から牛金軍を救い出し、城まで連れて帰ってきたのでした。幸先のいい勝利になるかと思われた呉軍の先行隊は、曹仁の勢いに押されて潰走してしまいます。
おそるべし、曹仁の胆力と武勇。曹操はこの報告を受けて、曹仁をさらに安平亭候へ昇格させました。
夷陵の占拠
初戦を思わぬ形でくじかれてしまった周瑜は、手薄な夷陵をまずは攻め取るべきだという甘寧の献策を採用します。夷陵は江陵の北西の位置にあり、ここを押さえれば襄陽からの補給を断つことも可能になります。
甘寧はやすやすと夷陵を占拠しますが、戦術上で重要な拠点であるために、曹仁もすぐさま対応。5000ほどの兵を送り出して夷陵を包囲します。1000人ほどの兵しか持たなかった甘寧は、周瑜に救援要請のSOSを出します。
ここでは周瑜は呂蒙の献策を聞き入れます。それは、別動隊による甘寧の救援ではなく、城から出てきた魏軍を主力部隊で叩くべきだというものでした。周瑜は配下の意見を聞き入れられる、有能なリーダーだったんですね。
周瑜と呂蒙は、夷陵の城から打って出た甘寧とともに魏軍を挟み撃ちにして、大きな戦果をあげました。夷陵を取られてしまった曹仁は、身動きが取れなくなってしまいました。
周瑜に命中した1本の矢
補給線を断たれ、籠城戦に追い込まれてしまった曹仁は、状況が悪化していく前に戦況を好転させようと考えます。曹仁は城外で会戦を周瑜に挑んだのでした。
周瑜もこれを受けて立ちます。熱いですねぇ。
戦況は呉軍の優勢に進みます。このまま曹仁の敗退かと思われたとき、魏軍から放たれた一本の矢が吸い込まれるように周瑜に命中。右脇腹に矢を受ける重傷を負ってしまいます。周瑜が重傷という情報を得た曹仁は、これぞ好機と呉軍に攻めかかりました。
戦局が一変しかねない状況だと判断した周瑜は、怪我を押して陣営を回ります。周瑜に鼓舞された将兵たちは奮い立ち、士気が高まりました。これを見て曹仁は攻撃を取りやめ、江陵の城へと帰ったのでした。
江陵攻防戦のその後
江陵には豊富な食糧があったので持久戦に問題はなかったのですが、不利な状況に追い込まれていた曹仁をさらに追い打ちする事態が起きます。江陵の戦闘に劉備が加わり、さらに張飛を周瑜の軍に参陣させたのです。
兵力でも局面でも打開の目がなくなり、曹仁はやむなく江陵を撤退。江陵は孫権の支配下に入りました。この攻防戦の1年後、周瑜は北への侵攻の準備のために江陵に向かいます。その途中で矢傷が悪化。
見事な勝利を収めたものの、重傷を負った江陵への途上で、周瑜は36歳の若さでこの世を去ったのでした。
三国志ライターたまっこの独り言
三国志演義ではかわいそうな扱いをされている周瑜と曹仁ですが、江陵をめぐる戦いはまさに名将同士の名勝負だったように思います。正史での江陵攻防戦は、2人の武人らしいかっこよさが際立っています。
三国志演義の、自分の重傷を逆手にとって偽の葬式をあげる周瑜と、それに踊らされて撃退される曹仁とは、だいぶイメージが違いますね。
関連記事:周瑜がかっこいい理由は?周瑜の青春はいつだって親友孫策、大喬小喬のためな件