塹壕を飛び越える事ができる敏捷な軍馬として知られる赤兎馬は、馬中の赤兎と呼ばれ、さぞかし巨大な馬のようにイメージしてしまいます。しかし、事実は時に残酷なもので赤兎馬は今の基準ではポニーレベルだった事が当時の史料から分かるのだそうです。
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漢代の簡牘史料によると赤兎は体高140センチ
柿沼陽平氏の「劉備と諸葛亮カネ勘定の三国志」によると、漢代の簡牘史料を踏まえた研究により赤兎馬のイメージはかなり変わってきているようです。
研究によると、体高140センチ前後の複数の馬の事を赤兎と呼んでいるケースがある事や、当時の人々がウサギの頭に似た頭部を持つ馬を赤兎と呼び名馬とみなしていた事例が挙げられています。夢を壊すようですが、これが事実なら呂布は小柄なポニーに跨り戦場を疾駆していたという事になります。
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プルジェワリスキーウマの系統の赤兎馬
また、赤兎馬のルーツはプルジェワリスキーウマの系統という話もあります。プルジェワリスキーウマとは、1879年にモンゴルの西部でロシアの探検家プルジェワリスキーによって発見された現存する唯一の野生馬で蒙古野馬とも言います。
奇蹄目のウマ科で、体長は2.2メートルから2.8メートルで体高は1.3メートル体重は250キログラム内外で色は黄か淡色の赤色。鬣は短く立ち、前髪はなくて耳が小さく、背中の中央に濃色の細い縞がたてがみから尾まで走っています。
漢の時代も、馬の体高の測り方は、首の付け根、肩の上までの高さだそうでそれで考えると、プルジェワリスキーウマと赤兎馬は同型と考える事が出来ます。
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前漢武帝が手に入れた汗血馬は?
しかし、赤兎馬はプルジェワリスキーウマだと仮定すると前漢の武帝が苦心して手に入れた大宛の汗血馬はどうなるのかが疑問になります。
これについては、後漢の順帝の時代以後は、漢王朝が国内の天変地異と西羌の台頭によって、西域の経営が不可能になり、同時に、黄土高原を牧として関中平原の厩と辺境の属国都尉、部都尉を介して順調に生産できた品種改良した名馬の供給が途絶えたとも考えられます。強力な軍馬が途絶した事で、西羌との戦いにも苦戦が強いられたとも考える事が出来るでしょう。
つまり後漢末には、武帝期には豊富に入っていた汗血馬は途絶し軍馬の質は前漢時代の初期に逆戻りしていた可能性があります。歴史は前に進むものと私達は考えがちですが、古代ローマ帝国が消滅して小国が乱立し欧州の文化レベルが大きく後退した事実を考えれば、三国志の時代において、体格の良い名馬が入手困難になった可能性もないとは言えないと思います。
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見てくれではない赤兎馬のパワフルさ
赤兎馬がポニークラスの小さな馬と聞くと正直ガッカリします。サラブレットのような体高170~180センチもある体重500キロの馬はそりゃあ映像映えする事でしょう。しかし、実際には、サラブレットは肉体的・精神的に弱い部分があり、寒さや病気、怪我に弱く、光や物音にも弱い神経質な性格です。
そして、俊足も1~4キロに限った事であり、短距離と長距離は不得手です。
例えば、北海道のドサンコは蒙古馬のようなアジアの中型馬に属し、体高は125~135センチで体重は250~350キロです。しかし、小さな体に似合わず従順で強力な脚力と持久力を持っていて、斜度60度の雑木林の斜面を登り、150キロの荷物を載せて一日80キロを踏破します。
また、体が頑丈で病気や怪我に強く蹄も堅いので蹄鉄も普通は要りません。さらに、乗馬のさいの上下振動が小さく乗り手の疲労が少ない特徴もあります。
魏の夏侯淵には、三日で五百里、六日で千里という強行軍の記録がありますがこれはプルジェワリスキーウマでないと実現できないでしょう。これを踏まえるとスピードと見た目こそサラブレットに劣りますがプルジェワリスキーウマは軍馬としての高いポテンシャルを持っています。
塹壕を飛び越え、過酷な行軍を呂布と共にした赤兎馬は決して、汗血馬の代用のような寂しい立場ではなかったと思います。赤兎馬は例え小さくてもパワフルで軍馬に適していたのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
赤兎馬はポニーレベルの中型馬であった可能性について書きました。映画などでアラブ種の見栄えのよい大型の馬を見慣れていると体高の低い馬は貧弱に見えてしまいがちですが、実際には、プルジェワリスキーウマのような蒙古野馬の方が、従順で持久力と登坂力に優れ、重い荷物を背負い長距離を歩く等、軍事目的には向いているという事が分かります。
見劣りがするのは、こちらの勝手な思い込みに過ぎないのです。
因みに日本でも明治期から軍馬の品種改良が求められ軍馬としてフランス産のペルシュロンと在来馬を交配した日本釧路種という軍馬が生産されました。日本釧路種は、体高148センチの小柄な馬で持久力と耐久力を備えた名馬だったそうです。
参考:劉備と諸葛亮カネ勘定の「三国志」/86ページ/文春新書/ 柿沼陽平/2018年5月20日一版/
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