老後2000万のために投資信託を始めて、毎日株価をチェックする友人がいます。「今日は株で勝った、今日は株で負けた」と毎日そんな話を聞かされます。友人の話を聞いている時に思ったのが、董卓の長安遷都でした。
あれだけの大規模な事業をどうして出来たのでしょうか?今回は正史『三国志』を中心に董卓の経済基盤について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています
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董卓の長安遷都計画
初平元年(190年)に袁紹を盟主とした董卓討伐軍が結成されて洛陽まで進撃しました。董卓軍も迎え撃って曹操を敗走させますが、孫堅に華雄を討たれたりして不利になります。
やむを得ず董卓は洛陽を放棄して長安に遷都する計画を立てます。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた華嶠の『後漢書』によると董卓が長安遷都を計画したことが記されています。
もちろん、長安を首都にしていたのは前漢(前202年~後8年)の話であり、今更そこが首都として機能するか疑問視されます。部下の楊彪(楊脩の父)が、その点をツッコミました。
すると董卓は、「武帝(前漢の第7代皇帝)は時々、杜陵(現在の陝西省西安市杜陵県)に住まわれていたこともあって、そこには瓦を焼くための釜土がたくさんある。また、涼州の木材を使えば宮殿はすぐに出来るはず」と自信満々に返答しました。楊彪はそれでも反対しますが、董卓は最終的に遷都を強行します。さて、董卓の遷都の自信はどこから出たのでしょうか?
辺章・韓遂との密約?
長安遷都に関して董卓は辺章と韓遂からも手紙が来て2人が長安遷都に賛成している、と部下に言いました。董卓1人が言っていることなので、どこまで本当なのかは分かりません。ただし、今回は手紙の内容が真実ということで話を進めます。
おそらく董卓が言っている手紙の内容は古いものです。なぜなら辺章は中平3年(186年)ごろに韓遂の手により殺害(または病死)されており、この世の人ではなかったからでした。それでは董卓はいつ頃から、彼らと繋がりを持っていたのでしょうか?実はそれらしき手がかりはあります。
中平2年(185年)に涼州の韓遂・辺章は後漢(25年~220年)に対して反乱を起こしました。この時に討伐軍の指揮官の1人として派遣されたのが董卓でした。
戦いは官軍の有利に進みますが、最終的には兵糧確保が出来なくなった官軍の敗北に終わります。この時、官軍の9割は壊滅したのですが董卓軍だけは、ほとんど無傷で帰還することに成功しています。史料によると董卓は川の水をせき止めて、即席のダムを完成させました。兵士は水が止まっている間に全員渡ってしまい、敵が追いついてきたらダムを壊して追いつかれないようにしたようです。
なかなか見事な作戦ですが、問題はダムを作る木材がどこから提供されていたのでしょうか?筆者の推測の域ですが、おそらく董卓と韓遂・辺章の間で休戦の密約が交わされており、逃げる時の木材も彼らから得たのでしょう。その時に長安遷都までは言いませんが、将来的に長安で大事業をする計画を彼らと約束したのかもしれません。手紙は戦闘終了から間もなくして、届いたものと考えられます。
董卓が長安遷都後の宮殿造営に涼州の木材を使用することを言ったのは、彼らとの繋がりが途切れていなかったからと思います。以上のことから董卓の長安遷都における経済基盤は、韓遂・辺章の繋がりをもとにしていたと推測しています。
三国志ライター 晃の独り言
11月17日に映画「レッド・クリフ」で小喬を演じておられた俳優のリン・チーリン氏が、EXILEのAKIRA氏と結婚式を挙げられました。おめでとうございます!映画の世界だけじゃなく、リアルの世界でも周瑜を選んだことには笑ってしまいました。
やっぱり、男は外見だったか・・・・・・まあ、冗談はよしておきます。「レッド・クリフ」から気が付くと10年も経過していたのか・・・・・・時の流れはあっという間ですね。最近、ツタヤでレンタルして見たのですが、本当にいつ見ても面白い作品です。
来年は曹操の死と魏(220年~265年)の建国からちょうど1800年なので、曹操関連の映画を製作してほしいですね。
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