呂布の評判を見ていると、無能な武力バカというのが圧倒的に多いような気がします。しかし、果たしてそうなのか?というのがkawausoの疑問なのです。そもそも、有能ってどういう事なのか?無能とは何を意味するのかを整理してみました。
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この記事の目次
有能とは何か?
言葉は正確に定義しないといけないので、検索して有能について調べてみました。
デジタル大辞泉の解説
[名・形動]才能のあること。また、そのさま。「有能な人材」「有能の士」⇔無能。
デジタル大辞泉には、このようにあり、才能がある人が有能である事が分かります。
では、才能とは何を意味するのか?これも大辞泉で調べてみると、
物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。「音楽の才能に恵まれる」「才能を伸ばす」「豊かな才能がある」「才能教育」
このように出てきました。そこでこの記事では有能を大辞泉の定義に則って解説します。
武力という才能で乱世を渡った呂布は有能に決まってる
有能であるという事が才能があるという事であれば、呂布は天下無双の武力を保持していたのですから、呂布が有能である事は疑いありません。ただ、それでも自己の武力を正当に評価せずに并州の田舎で燻って一生を終わるようなら、それは才能を生かす事が出来なかった無能な人の評価を免れないでしょう。
しかし、呂布は当初、丁原に見いだされて頭角を顕し、その後洛陽に上り、自分の価値をさらに高く買ってくれた董卓に寝返り、次々と自分の才能をステータスに変化させていきました。自分を見出してくれた丁原を討ったのは呂布に節操がないだけで、これと有能・無能は関係がありませんね。
こうしてみると、自分の武力を武器にのし上がった呂布は有能だと言えます。
自分の悪事が露見する前に陣営を乗り換えたのは有能
董卓に寝返り騎都尉に昇進した呂布ですが、董卓は偏狭で乱暴、機嫌が悪いとボディーガードの呂布に刃物を投げつけるような凶暴な男でした。それに呂布は不満でしたし、また、董卓に隠れて侍女とウヒョな関係になっている事も悩みのタネでした。
しかし、折よく、董卓の暴政を憎んでこれを暗殺しようと考えている王允が接近して、悪事が露見する前に董卓を殺して禍を除こうと誘ってきます。呂布は少し迷いますが、王允について首尾よく董卓を討ちました。
父子の関係だった董卓を殺したのは無節操という批判はあるでしょうが、これは呂布の有能さとは無関係である事は以前にも述べました。さらに大勢の人民が董卓の暴政に苦しんだのは事実で、この一事で呂布の名声は上がります。おまけに呂布は、この手柄で昇進して奮武将軍になり、仮節を与えられた上に温県を食邑に与えられて侯の位に登りました。
董卓を殺した事で呂布の立場が不利になれば、無能だなとも言えますが、むしろ董卓を刺して感謝され、地位もあがり、憂いから解放され待遇も良くなったのですから、呂布が有能である事には、誰も反論できないでしょう。
呂布の提案は的を得た有能なモノ
こうして、王允と政権運営するようになった呂布ですが、この王允が器が小さい人で董卓に関係していた者を投獄したり殺したり、長安で暴れた董卓の私兵団に恩赦を出さなかったり大量に貯めこまれていた董卓の財産を公卿と将校で山分けしようと提案しますが、王允はこれも許しません。大きな理由はガチガチな儒教官僚の王允は、呂布をただの腕っぷしバカと軽んじていてお前は番犬として働けばいいのだと見下していたからです。やがて、処罰を恐れた董卓の部下の李傕や郭汜が賈詡に唆されて、兵力を集めて長安に攻め上ります。
呂布は、一応応戦するものの多勢に無勢と見切りをつけて、数百騎の手勢を率いて逃げてしまいます。
奮武将軍でありながら、献帝を置き去りに長安を捨てたのは不忠かも知れませんが、それもまた呂布の有能さとは無関係です。そもそも献帝を守り長安で死ぬのが有能なら王允は有能なのでしょうか?kawauso基準では董卓を討った後は、自らの頑迷固陋がのせいで、やっと安定するチャンスが出て来た後漢にトドメを刺した人です。
また、呂布は政権運営でも我関せずでもなく、董卓の配下を赦して恐怖心を取りのぞけと言ったり、董卓の財宝を山分けして忠誠心を固めよと言ったり、色々有能な意見を出していますが、それを拒否したのは王允であり呂布のせいではありません。良禽は枝を択ぶという格言に従えば、提案を無視され続けた王允の尻ぬぐいで呂布が死ぬ必要はないとも言えます。君、君足らずんば、臣、臣足らずであり文句を言われる筋合いはないでしょう。
※良禽は枝を択ぶ:優れた鳥は立派な枝を選んで休息するという意味で、良い主君を選ぶ権利は部下にもあるという格言
放浪時にも部下を食わせていた有能な将軍
長安を追われた呂布は、袁術、袁紹、張揚、張邈、劉備というような群雄の間を渡り歩きますが、これも自己の勢力を確立できない便利屋のように思われ無能と取られます。しかし、よく考えてみると呂布は一人ではなく、自身の配下である并州騎兵数百も一緒に引き連れて放浪しているのです。この連中の給与や食事の世話ばかりではなく、騎兵ですから馬の糧秣の世話までがボスである呂布の仕事ですから、力がある群雄の世話になるのは止むをえない事でしょう。
その配下として仕事をしながら、黒山賊を全滅させるような手柄を立てつつ、さらに暗殺の危機も潜り抜けるのですから、呂布個人の有能さは大したものです。呂布は、その戦闘力という才能故に群雄は放置しなかったわけであり、それを有能と言わずして何を有能と言うのでしょう。
よく考えると傭兵隊長として劉備も同じような事を呂布以上の期間やっています。呂布が無能なら劉備も無能という事にならないでしょうか?
鴨がネギをしょってくる事二度
呂布は、その武力という稀有な才能により兗州の支配者になり、また同様の理由で劉備に受け入れられて徐州に入り、隙を突いてクーデターを起こして徐州を領有しています。いずれも永続はしませんでしたが、この二度の幸運はどこから来たのでしょう?結論は出ていますね。呂布の武力であり、今風に言えば呂布の強力なコンテンツです。
もう一回、有能と才能の定義を考えてみます。
①有能とは:才能のあること。また、そのさま。「有能な人材」「有能の士」
②才能とは:物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。
呂布は武力という稀有な才能を自覚し、それを巧みに使う事でキャリアをアップし、ついには兗州、徐州を領有して群雄の一角を占めるという快挙を成し遂げました。呂布に匹敵する武力を持つ人間で、ここまで成功した人物はあまりいないでしょう。呂布は武力という才能に限れば、それを十二分に活かした有能な人であり、武力バカでも脳筋でもないのです。
三国志ライターkawausoの独り言
でも、曹操にボロ負けしたじゃんという反論もあるでしょうが、それはそうでしょう。政治力や戦略において呂布は曹操に及びませんし、それは呂布の才能ではありません。だからこそ、陳宮を配下において、己の足りない部分を補っていたのです。全てに才能があると過信する人なら、陳宮など置かずに全部自分で決済して、もっと早い段階で三国志から消えていたのではないでしょうか?
参考文献:後漢書 正史三国志
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