興平年間(194年~195年)に董卓の残党は各地で暴れ回りました。その時に、ある1人の女性が動乱に巻き込まれて、匈奴まで拉致されます。女性の名は蔡琰。蔡文姫が有名なので、この記事では蔡文姫で通します。彼女はいったい何者なのでしょうか?今回は蔡文姫と彼女の代表作「胡笳十八拍」の異説について紹介します。
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蔡文姫とは何者?
蔡文姫は後漢(25年~220年)末期の政治家で、学者でもあった蔡邕の娘です。
甥は西晋(280年~316年)の将軍である羊祜。まさに華麗なる一族です。蔡文姫は才女であり弁舌・琴に優れていました。父の蔡邕は後漢の歴史書『東観漢紀』を執筆したり、また董卓からの信任も厚く董卓は蔡邕の言ったことは絶対に聞いていました。
しかし初平3年(192年)に董卓が呂布と王允の手により暗殺されると、蔡邕は董卓派の官僚と同罪とされて処刑されます。娘の蔡文姫は無事であり夫の衛仲道と難を逃れますが、夫も間もなく死去。
やがて興平年間(194年~195年)に董卓軍の残党が逃亡した献帝を奪取するために、各地で略奪を始めます。蔡文姫はこの時、その争いに巻き込まれました。その結果、匈奴まで拉致されて、南匈奴の劉豹(左賢王)の側室となります。
やがて時は流れて建安12年(207年)に、蔡邕と親交があった曹操は蔡氏が途絶えていることを悲しみました。曹操は蔡文姫を探し当て彼女が南匈奴に捕まっていることを突き止めます。曹操は身代金を支払い蔡文姫を連れ戻しました。
戻ってきた蔡文姫は3度目の結婚をしますが、その相手が死罪に匹敵する行いをしました。蔡文姫は曹操を説得して、死罪を免じることを頼みます。曹操は夫の死罪を免じる代わりに、戦乱で失われた蔡邕の蔵書の復元作業を頼みます。現在の博物館学芸員の仕事です。
「分かりました」と了承した蔡文姫は、約束通りに綺麗に誤字・脱字なく復元作業を完成させることに成功しました。曹操は約束通り、夫の死罪を免じたそうでした。その後の蔡文姫については分かりません。
魏の嘉平元年(249年)まで生きていたようですが、確たる証拠はありません。
蔡文姫の詩は偽作?
蔡文姫には「胡笳十八拍」という詩があります。南匈奴に捕らえられている時に作ったものであり、悲しい内容の作品でした。これを聞いた曹操は非常に感動して、連れ帰ったと言われています。ほとんどの人は、蔡文姫の作品と言い張っていました。北宋(960年~1127年)の王安石・黄庭堅、南宋(1127年~1279年)の李綱・王応麟などは肯定論者です。
また近代の歴史学・文学者の郭沫若氏も蔡文姫の作品であると言っています。郭沫若氏によると内容から、体験者でないと書けないものが多いと断定しています。一方、劉大傑氏は以下の反対論を展開しました。
(1)文章の技巧が後漢のものではない
劉大傑氏によると文章の技巧が、後漢の作風に合っていないとのこと。筆者も中国文学の専門的な勉強は行っていないので、この話はここで筆を置きます。
(2)「胡笳十八拍」の話は唐(618年~907年)以前の書物には出ない
実は蔡文姫の「胡笳十八拍」は唐以前の書物には全く出ていません。『後漢書』・『文選』・『宋書』・『晋書』の掲載ゼロですし、当時の有名詩人でさえ彼女のことを全く話題に出していません。
そのことから、「胡笳十八拍」は唐以降の偽作という説が出ています。
(3)当時の状況を全く知らない
「胡笳十八拍」では南匈奴と後漢が長期間戦争状態である風に描かれています。ところが、南匈奴は後漢末期の時点で後漢に帰順しています。博識な蔡文姫が、そんなことを知らないはずがあり得ません。つまり、これは著者が状況を知らないで想像で描いた可能性が高いということです。以上のことから、現在の学会では蔡文姫の「胡笳十八拍」は偽作ではないかという説が濃厚になっているようです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が蔡文姫の生涯と彼女の詩である「胡笳十八拍」の異説に関しての解説でした。これだけの仮説を出されていますが、肯定論者は主張を譲っていないそうです。詳細は不明ですが最近では「蔡文姫は本当に蔡邕の娘なのか?」、という議論まであるようです。そこまで話し合うか?、と突っ込みたくなりました。
余談ですが筆者は今から6年前に「曹操」というドラマを見ました。中国版『蒼天航路』です。その中で蔡文姫は曹操の初恋の人という設定だったことを記憶しています。ドラマのクライマックスで曹操は、夫の罪を免じる代わりに彼女に書物の修復作業をさせる話が出ます。
興味がある人はレンタルでもよいので、ご鑑賞してください。
※参考文献
・李殿元・李紹先(著) 和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)
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