三国志の世界では城を落とせばすぐ支配できたの?


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長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

三国志の世界の城とは日本の城とは違い、都市を城壁で囲んだ形式が一般的です。ゲームなどでは城が落ちると即座に、それは自分の領地となるのですが、実際の三国志の戦いでは、どうだったのでしょうか?

 

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宜都を陥落させた陸遜の戦後処理

陸遜

 

三国志の時代、城が陥落した後でどんな処置がなされたかは正史三国志の各所に記述があります。例えば、西暦219年樊城(はんじょう)を包囲した関羽(かんう)の背後を衝いて荊州の宜都郡(ぎとぐん)を占領した陸遜のケースを見てみます。宜都を陥落させた陸遜の動きを体系的に見ると

 

①宜都太守を権領、撫辺(ぶへん)将軍を拝受し華亭侯に封じられる

②劉備の任命した宜都太守樊友(はんゆう)が逃亡、諸城の長吏及び蛮夷の酋長(しゅうちょう)が降伏

③陸遜、金銀銅印を孫権に要請し、降伏した人間に()し授ける

 

これを見ると、①で戦勝と同時に陸遜は宜都太守を兼務すると同時に撫辺将軍、華亭侯に封じられています。これらの地位は孫権が与えたものであり、献帝の許可を得たものではないでしょう。しかし、少なくとも宜都太守を兼任する事が戦後処理の第一である事は分かります。これにより陸遜が呉に置いて、どのような地位か占領下の人々に理解させるわけです。

曹操に印綬を与えられ、従う費桟

 

②では元の宜都太守樊友の逃亡を切っ掛けにその指揮下の官僚や異民族が降伏している事が分かります。少なくとも防衛の最高責任者が逃亡してしまえば、なおも徹底抗戦する必要はないという暗黙のルールがあったのでしょう。

 

③においては占領後の人事が開始されています。金銀銅印というのは役職名が彫られた小さな印鑑の事で、志賀島で発見された漢倭奴国王(かんわなこくおう)の印綬みたいなものです。これを与える事で降伏後の地位を保証し、行政業務を再開すると同時に忠誠心を担保しようとしたのでしょう。


戦わずして公安城を落とした呂蒙の戦後処理

樊城の戦い

 

陸遜と同時期、呂蒙(りょもう)も公安城を密かに包囲して、虞翻(ぐほん)の降伏勧告を以て守将の士仁(しじん)を降伏させた事があります。このケースは一兵も交える事なく、城が落ちたケースなので、こちらも時系列でみてみましょう。

 

①呂蒙は城に入って駐屯し、ことごとく関羽及び将兵の家族を捕らえた。

②将士の家族を慰撫(いぶ)し同時に軍中に命じて部下に略奪(りゃくだつ)を許さない事を約束した。

③呂蒙の部下が民家の笠を奪ったので呂蒙は(ゆる)さず斬り軍中は恐れ(おのの)き犯罪は消えた。

④呂蒙は、城内の老人を見舞い、病人には医薬を与え、寒さに震える者には衣料を与えた。

⑤関羽の府蔵(ふぞう)の財宝は皆封印して孫権を待った。

勉強に励んで文字も読めて賢くなる呂蒙

 

陸遜のケースよりも呂蒙伝の記述の方がより具体的です。呂蒙の場合には、①最初に関羽とその将兵の家族を最初に確保し、関羽軍の士気を下げるのが第一目的でしょう。同時に②人質が逃げないように城内での略奪行為を禁止し、③破った兵士を容赦なく処刑しています。

 

同時に、関羽とその将兵の家族以外についても、④真っ先に老人の安否を確認し、病人には薬を、冬でも着る者がない貧民には衣服を与えています。

最後の⑤はつまり、城内の宝物を不当に横領していませんという意志表示です。

 

【樊城をめぐる劉備・曹操・孫権の軍事衝突】
樊城の戦い特集


成都城を陥落させた劉備の戦後処理

二刀流の劉備

 

劉備は西暦214年、入蜀より二年で、益州の州都である成都を包囲して数十日の後に劉璋(りゅうしょう)を降伏させて成都を陥落させています。こちらのケースも時系列で見てみましょう。

 

①劉備は城内に酒を置いて士卒を持て成して苦労を労った。

②成都の蔵から金銀を取って将兵に分配し、(こく)(はく)を還した。

③劉備は益州牧を兼務し、部下をそれぞれに顕職(けんしょく)につけた。

④劉璋に信任された者、劉璋に排斥された者を等しく登用した。

⑤劉璋を南郡の公安に遷し、財物と振威将軍の印綬を還した。

発石車 曹操

 

陸遜や呂蒙の場合と違い、城内の住民への配慮がない感じがしますが、それは多分、劉備軍が成都を包囲するだけで投石機のような物を使って攻撃してわけではないからでしょう。また、地味ながら成都落城と同時に、①各所に酒を置いて将兵に好きに飲ませ、②すぐに城内の蔵を開いて金銀を与えて略奪を阻止しています。

張飛と劉備

 

同時に、ここまで苦楽を共にした部下を要職につけて献身に報いると同時に、旧、劉璋政権下で厚遇されていた人物、冷遇された人物を関係なく要職につけています。これらは、不満分子が劉備の支配を認めずに離反する事を阻止した事でしょう。

劉備に降伏する劉璋

 

最後の⑤は劉璋を益州から遠く引き離すと同時に、その財産も印綬も返還し、劉璋が不満を抱き、呉や魏に降って蜀を取り戻すのに使われるのを阻止する措置だと推測します。なかなか大雑把ながら、ポイントを押さえた戦後処理と言えます。


城が落城した時の手続きまとめ

株式会社三国志で働く劉備と孔明

 

ここまでの3つのケースの共通点を認めてみると、多くの場合で城を陥落させた後で、敵方の部下に印綬を与えるなどして新たに任官して行政活動を再開しています。これは人事がグズグズしていた場合、敵側の豪族勢力が戦後処理が終ってから処罰されるのではないかと疑い、反乱を起こすのを防止する効果があったと考えられます。

玉璽を見つけた孫堅

 

また、攻める側でも太守を兼任(けんにん)したり、しかるべき印綬(いんじゅ)を受けるなどして自らの地位を占領地の住民に知らしめる事に腐心しています。やはり肩書は大事なんでしょうね。もうひとつは、呂蒙のケースに顕著な民心の安定があります。略奪を阻止して民心を安定させたり、医薬品や衣料品を配るなどで、民心を安定させると同時に、敵愾心(てきがいしん)を低下させて統治を容易にしようとした様子が分かります。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

以上、三国志の時代の城陥落後の戦後処理について解説してみました。一口に城を陥落させると言っても、ケースbyケースで民心安定を先にしたり、敵方勢力の取り込みを先にしたり、略奪を阻止する為に恩賞を真っ先にするなど違いがある事がわかりますね。

 

参考文献:正史三国志

 

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