歴史には、権力者が後継者を明確に定めなかった為に、国が崩壊したケースが多くあります。
三国志に限っても袁紹は生前に後継者を確定しなかった為、袁尚・袁譚の後継者争いに繋がりましたし、孫権も死の直前まで後継者で逡巡し二宮の変を引き起こします。一方で、そんな優柔不断さとは無縁に見える諸葛孔明も実は後継者を明確に決めていたとは言い難い事が史書から読み解けるのです。
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この記事の目次
果断な孔明は三国志演義の創作
多くの読者は諸葛亮の臨終について、三国志演義の描写を思い出すでしょう。実際の三国志演義にはこうあります。
皆が慌てふためいている所へ、尚書李福が又もや来て、孔明が昏睡し、ものも言えぬのを見て、「ああ国家の大事に間違いをした」と大声で泣いた。暫くして孔明は目を開き、ずっと見まわし、李福が床の前にいるのを認め「そこもとが戻ってきた理由は存じておる」と言った。李福は詫びた、「それがし天子より『丞相百年ののちは誰を後継者にするか問うてくるよう』との命令を受けながら、先ほどは慌てましてお尋ねするのを忘れました」
孔明「わしの死後、大事を委ねるべき人は蔣公琰がよい」李福「公琰どのの後は誰に継がせましょう」孔明「費文偉がよい」。李福はまたも問うた、「文偉どのの後は誰に継がせましょうか」が孔明は答えなかった。大将たちが前に出てみると息が絶えていた。
これが三国志演義で孔明が後継者に触れた部分で、非常に有名です。
ただし、これは正史三国志には記載がなく、裴松之が補った益部耆旧雑記という記録に、似たような部分が出てきます。
三国志演義の下敷きになった益部耆旧雑記
益部耆旧雑記には以下のようにあります。
諸葛亮が戻って来た李福に語るには 「私は君が還ってきた理由を知っている。近日に語った言葉は、数日に及んだとはいえ尽されてなく、改めて来た時に決定しようと思っていたのだ。君が問う者は、蔣公琰が宜しかろう」 李福は感謝し 「先日は度忘れして公に諮問しませんでした。公の死亡には誰に大事を任せるべきでしょう? その為に戻りました。再び教えて頂きたい。蔣琬の後は誰に任せましょう?」 諸葛亮 「費文偉に継がせれば良かろう」 李福は、さらにその次を聞いたが諸葛亮は答えなかった。李福は帰還し使命を奉じて劉禅の思し召しに適った。
三国志演義によく似ていますが、これは正史の記述ではなく陳寿は信憑性が薄いと考えて落としたのだと推測されます。
そもそも益部耆旧雑記では、李福の行動が奇妙で、諸葛亮の重病を知って成都から派遣されながら、万が一のための後継者指名も聴かず前後策だけ協議して、一度五丈原から帰途に就き、「いっけね!後継者聞いてないや」と引き返すなどうっかり八兵衛にも程があります。やはり信憑性が薄く、伝聞の類だろうとkawausoにも思えます。
【北伐の真実に迫る】
正史において蔣琬の後継者就任は極秘事項
では、陳寿の正史三国志に書かれた諸葛亮の後継者についての記述はどうなっているのでしょうか?これは思ったよりも記述が少なく、正史三国志諸葛亮伝に、諸葛亮は「蔣公琰は忠雅の志を託し、まさしく私と共に王業を助ける者だ」 と常々口にした。そして、密かに劉禅に上表するには 「臣にもし不幸があれば、後事は蔣琬に託すのが宜しいでしょう」という記述があります。
当初のまさに私と共に王業を助ける者だというのは、必ずしも後継者であるという意味ではなく、諸葛亮を補佐して仕事を助ける部下には口にする事です。なので、劉禅に密かに上表したというのが蔣琬を後継者と目しているという部分と言えます。
ただし、密かに上表というだけあり、この事は極秘であり劉禅と一部の人間以外知らず、下手をすると蔣琬自体が知らなかった可能性もあります。
※ちなみに正史では孔明が費禕を後継者に指名した事実はありません。
そんなバカなと思われるかも知れませんが、次項ではその証拠を見てみます。
孔明が後継者を明確にしない事で楊儀は破滅した
諸葛亮が自身の後継者を劉禅などの一部を除いて伝えていない事は、正史三国志魏延伝などから窺い知る事が出来ます。
秋、諸葛亮は病いに苦しみ、極秘に長史楊儀、司馬費禕、護軍姜維らと自身が没した後に軍を退却させるプログラムを作成し、魏延に後続を断たせ、姜維にはこれに次ぎ、もし魏延が命令に従わないようなら軍をそのまま進発させるよう命じた。魏延伝
これを見ると、諸葛亮は後継者についてうんぬんは言わずに自分の死後、軍を退却させる事とその際に反発するかも知れない魏延の処置について言及しているだけです。
また同じく楊儀伝では、諸葛亮の秘密主義が彼に不幸をもたらしています。
楊儀は軍を典領(指揮)して還り、また魏延を誅滅した事で自分の功勲は至大で、諸葛亮に代って執政するのが当然だと考え、都尉趙正を呼んで『周易』でこれを筮わせた処、家人の卦を得たので黙然として機嫌が悪くなった。
しかも諸葛亮の平生からの密旨では、楊儀の性は狷狭であって後継者の目算は蔣琬に在り、蔣琬はかくて尚書令・益州刺史となった。
楊儀伝
これを見ると、諸葛亮は自分の後継者を蔣琬だと部下にも告げていないらしい事が窺えます。前もって蔣琬を後継にすると宣言しておけば、楊儀も過剰な期待をせず、蔣琬政権下でブー垂れて庶民に落とされる事もなかったかも知れません。ここにも諸葛亮の秘密主義が一人の部下を不幸にした事が見て取れます。
蔣琬も後継者指名を知らない可能性
では、蔣琬には前もって諸葛亮に後継指名があったのでしょうか?どうもこれも怪しいものです、蔣琬伝には以下のようにあります。
諸葛亮が亡くなり、蔣琬は尚書令になり俄かに行都護・仮節・領益州刺史を加えられて、大将軍に就任し、尚書の事を統べ安陽亭侯に封じられた。
この俄かという言葉に引っ掛かります、俄かとは、急に、不意に突然という意味であり蔣琬が預かり知らない所で、トントン拍子に諸葛亮の後継者としてのお膳立てが整えられた印象を受けます。もしかすると蔣琬さえ、諸葛亮が死ぬまで自分が後継者に任命されていたとは夢にも思わなかったのかも知れません。
三国志演義の神算鬼謀軍師とは随分違う、孔明没後の後継者ドタバタ争いが史実の三国志ではあったのかも知れないのです。
三国志ライターkawausoの独り言
kawausoの考えでは諸葛亮は、まさか五丈原で自分の寿命が尽きるとは思ってなく、後継者についても劉禅には、私に何かあれば蔣琬でと告げてはいたものの、そんなに現実味がある遺言ではなかったかも知れないと推測しています。後は、残された連中がわいわいと自分の思惑を絡めながら、すったもんだの末に蔣琬、それから劉禅の意向で費禕になったというのが実態かと感じました。
参考文献:正史三国志
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