2020年NHK大河ドラマ麒麟がくるの主人公、明智光秀、その光秀の叔父として美濃明智荘を守っているのが、西村まさ彦演じる明智光安です。ドラマにおいては光安は、野心を持たず明智荘を守り抜く事しか念頭にない平和主義者とされていますが、それは本当なのでしょうか?
※今回は美濃国諸旧記に準じて解説しています。
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この記事の目次
兄明智光綱の急死を受けて明智荘を継ぐ
明智光安は、現在の可児市北東部から御嵩町西部一帯に広がっていた明智荘を支配していた明智光継の三男として生まれました。父の明智光継の隠居後、兄である明智光綱が家督を継ぎ、この光綱の子として誕生したのが明智光秀です。
そんなわけで、兄を支える立場になった光安ですが、兄であり明智荘の当主であった光綱が早くに亡くなります。その頃、光秀はまだ幼少であり、明智一族をまとめる事が出来ないので、明智光安が後見人となり、明智一族を率いる事になります。光秀は叔父光安の庇護の下で、武者修行に励んだと伝えられます。
姉小見の方を斎藤道三に娶らせ関係強化
明智光安は、平和主義者だけあり、美濃において権力が移り変わる事に敏感でした。
その頃、美濃では守護の土岐頼芸の力が衰え、守護代の斎藤道三の力が強まっていました。そこで、光安は姉の小見の方を斎藤道三の正室として嫁がせ、関係強化を図ります。光安の見立ては的中していて、道三は土岐頼芸を追放する下克上を達成しました。
しかも、小見の方は懐妊し、道三の娘である帰蝶を産みます。
この帰蝶は、後に織田信長に嫁ぐ事になりますが、光秀と信長の縁もこの帰蝶で繋がっているという説もあります。また、光秀も叔母が道三の側室である事から、一族として稲葉山城にも出入りしていたかも知れません。美濃国諸旧記には、道三の言葉として、
明智の家を、一方の楯ともなすの心なれば、
と記しています。
つまり明智一族を自分は頼みにしていると書いているので、それが本当であれば次の当主になる光秀と道三が懇意で、光秀が道三の薫陶を受けたとしても不思議はないように感じます。
道三と義龍が対立、板挟みになる光安
しかし、明智氏の平穏な日々にも終わりがきました。斎藤道三と後継者である斎藤義龍の関係が悪化し、弘治元年(1555年)冬、ついに義龍は、道三に叛いて挙兵します。美濃の国人衆は、道三につくか義龍に付くかで二分されますが、道三は強引な統治手法と主君の土岐頼芸を追放した事で、美濃国人の支持を失い、多くの国人が義龍につきました。ところが、ここで光安の平和主義が災いします。
「道三には楯と頼られた恩義があり、また、父の無道に怒って挙兵した義龍にも義がある」として、光安は、どちらを切る事も出来ず中立という態度を取ってしまったのです。
結局、戦いは義龍が圧勝、道三は長良川の戦いで戦死します。
当時、父子で合戦になった場合、子は父を生け捕りにして国外に追放するのが普通でしたが、義龍は躊躇いなく殺しているので、余程の恨みだったのでしょう。
明智城陥落 光安は光秀を逃がす
毒を喰らわば皿まで、父殺しを為した義龍には道三についた勢力や日和見をしていた勢力に対する容赦はなく、弘治二年9月、義龍の軍勢は明智城に攻め寄せました。明智光安は、一族を結集して800人で城を守りますが、多勢に無勢、落城は避けられない状況になります。
明智光安は自害して果てる前に、若き光秀に対して「落ちて存命なし、明智の家名を立てられ候へ」と、家の再興を託します。
美濃国諸旧記では、明智城落城時に籠城に加わった家臣には、溝尾庄左衛門、三宅式部之助、 藤田藤次郎、可児才右衛門、肥田玄蕃という面々がいたとされます。
史実でも、明智光秀が本能寺の変を打ち明けた重臣に、藤田伝五、溝尾庄兵衛という名前や、明智秀満、明智光忠という同族の名が見受けられ、この時光秀と共に落ち延びた人々か、その子供の代が光秀に仕えた可能性もあります。
明智秀満は、明智光安の子で、明智光忠は光秀の従兄弟と伝えられるので、光安は自刃する前に、我が子を光秀に託した可能性もありますね。
麒麟がくるの明智光安
麒麟がくるの明智光安は、平和主義が行き過ぎて、領地である明智荘さえ守れればいいという願いから、長いモノにはまかれよの事なかれ主義になっています。成り上がり者で強欲な主君、斎藤利政(道三)に内心では辟易しながら、表面上はヘコヘコする中間管理職の役回りです。甥の光秀が道三にも遠慮なく思った事をいうのに、毎回、や冷やし、胃が痛い思いをしながらも、その器を羨ましくも微笑ましく思う一面もあります。
ただ、光安は決して命を惜しんで臆病になるような卑怯者ではなく、明智荘が危機に瀕した時には一命を投げうって、これを守るという信念を持った武士として描かれます。光秀に比べると、かなり情けないですが、兄から受け継いだ明智荘を非力なりに必死で守ろうとする点には共感が持てます。
戦国時代ライターkawausoの独り言
以上、今回は美濃国諸旧記を元に、明智光安の生涯を解説してみましたが、こちらの史料は江戸時代の寛永年間に書かれたもので、本能寺の変から数えても60年以上が経過してから書かれたもので、さらには誰が書いたのか分かっていません。
例えば、明智城落城は同時代の史料には出てこない事から、実際にあったかどうか、現在でも議論があり結論が出ていませんし、斎藤道三についても、父子二代ではなく一代で国盗りを成し遂げたと書いてあるなど、信憑性が弱い点もいくつもあります。
ただ、物語である為、よくまとめられていて、読みやすくもあるので今回採用しました。
逆に言うと、このような後代の史料を援用しないと、明智光安という人物は謎だらけで物語に絡める事も難しくなると思います。
今回の麒麟がくるも、美濃国諸旧記をベースに明智光安を描いているようですので、どこが同じで、どこでアレンジが加えられているのか比べてみるのも面白いでしょう。
参考資料:美濃国諸旧記
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