戦国のボンバーマンこと松永久秀。麒麟がくるでは、光秀に対しては頼れる兄貴の面を見せ、自分の敵を接待した鉄砲鍛冶の宗次郎に対しては、殺すぞこの野郎と冷酷な面をのぞかせるなど多面性を持つ人物として描かれました。
そんな松永久秀は主君の三好義興を殺し、将軍足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼き払うという三悪を為したとして、斎藤道三と並ぶ、戦国の梟雄とされています。しかし、最近の研究により、どうも松永の三悪は事実ではない事が分かってきました。
関連記事:【麒麟がくる】明智光秀と松永久秀には共通点があり過ぎた
関連記事:【センゴク】丹波の反乱と松永久秀の反乱
この記事の目次
松永久秀の悪評を形成した太田牛一
松永久秀の悪評が形成されたのは、江戸時代の初期に遡ります。それは、信長公記の著者でもある太田牛一が書いた「※太かうさまくんきのうち」に最初に出現し、そこで松永は将軍義輝を討ち、主君の三好長慶に讒訴して、長慶の弟の安宅冬康を誅殺し、長慶の息子の三好義興を毒殺し、その後信長に降るも、やがては叛き、永禄十年10月10日に東大寺大仏殿を焼いた罪により、十年後の天正五年の同月、同日、同時刻に信貴山城で名物、平蜘蛛の釜を叩き割り焼死したとされます。そして、太田牛一は、この松永の最期を天道の報い、つまり悪行の因果応報としたのです。
※たいかうさまくんきのうち:太閤様軍記の内と読み、豊臣秀吉の事績を賞賛した書物。
日本外史に記載され、世間に広まる
こちらの太かうさまくんきのうちは、江戸時代の中期に、岡山藩の儒学者湯浅常山が記した戦国武将の逸話集である常山紀談に、「信長公松永弾正を恥しめ給ひし事」という項目をつけ、よりドラマ仕立てで具体的になります。
東照大権現(徳川家康)が織田信長と対面した際、信長は傍らにいた久秀について、常人では出来ない事を3つもした。将軍の足利義輝を殺し、主君の三好長慶の息子義興を殺し、奈良の東大寺大仏殿を焼いた男だと紹介した、松永久秀は脂汗を流しながら赤面した。 常山紀談
常山紀談では、家康の面前で信長に平然と恥をかかされる松永が強調された上に、松永当人も、それがどうしたという顔ではなく、脂汗をかき赤面するという描写になりました。さらに常山紀談の松永観は、文政十二年(1829年)に頼山陽が書いた日本外史で強化され、松永久秀が主君殺し、将軍殺し、大仏殿を焼き討ちと三悪を重ね、最後には平蜘蛛を叩き割り、城と共に焼け死んだ事がセットで描かれました。
日本外史は、幕末から明治にかけて、広く日本人に読まれるベストセラーになり、ここで、松永久秀は、有能だが悪逆非道な人物、言い換えると世間の常識に囚われず、己の野心を最優先に乱世を生き抜いた爽快な悪党のイメージとして固定化したのです。
三好義興殺害は冤罪
ところが、このもっともらしい、三悪に松永久秀が関与したという具体的な証拠はありません。例えば、永禄六年(1563年)主君の三好義興を殺害した嫌疑については、元亀四年(1573年)以降に書かれた足利季世記には、松永が毒殺したと書かれています。ところが、それ以前に出された柳生文書には、義興の病が重い事に、とても不憫で心も消え入りそうだと激しく落胆している松永の様子が書かれています。義興と松永は、永禄初年から共に京都で活動していた戦友であり、畠山氏や六角氏とも戦った間柄でした。柳生文書は、松永の部下であった柳生宗厳に対して松永が出した文書であり、嘘を書く必要がない文書なので、こちらが本当の松永久秀の本心でしょう。
足利義輝殺しには参加せず
次に永禄八年(1565年)に起きた将軍足利義輝殺しについては、松永久秀はすでに隠居して関与しておらず、実際に御所を包囲したのは、三好義継、三好長逸、そして、久秀の息子の松永久通でした。最近の説では、本当は三人は義輝を殺すつもりはなかったものの、義輝が武力で激しく抵抗したので、不可抗力で殺害したとも言われています。
一方、将軍殺しには参加しなかった久秀は、義輝の弟で仏門に入っていた弟の覚慶(後の義昭)の身柄の安全を保障しています。息子の松永久通は、義輝の弟の鹿苑寺周暠を討っており、義昭を殺す可能性も十分にありました。それに対し松永は義昭の身の安全を保障する事で、久通の行動を制止したとも考えられます。ここから考えると、松永久秀が将軍殺しに消極的ないし、反対であり万が一の切り札として、義昭を確保する事で、反三好の勢力が勢いづくのを阻止しようとしたと考えるのが自然です。
【次のページに続きます】