関羽の戦歴にキズを付けた麋芳と士仁とは何者か?

2020年2月9日


 

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はじめてのプロ野球 関羽

 

建安24年(219年)に蜀(221年~263年)の将軍である関羽(かんう)は樊城にいる(220年~265年)曹仁(そうじん)を攻めました。この時に従軍していた将軍の中に麋芳(びほう
)
士仁(しじん
)
がいます。麋芳は麋竺(びじく
)
の弟です。2人は関羽が曹仁を攻めている間に、とんでもないことをします。今回は正史『三国志』をもとに麋芳と士仁について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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麋芳 麋竺の弟

陶謙

 

麋芳は兄の麋芳と一緒に陶謙(とうけん)に仕えていました。軍人というよりも、陶謙のパトロンという存在です。ただし、陶謙は道義よりも自分の感情の思うままに行動するタイプだったので、麋竺・麋芳兄弟がお金をねん出していたというよりも、脅し取られていたというのが正しいかもしれません。

 

興平元年(194年)に陶謙は亡くなって当時、客将だった劉備(りゅうび)が後任の徐州牧(長官)となります。この時、麋竺・麋芳は妹を劉備に差し出します。劉備と麋家はその時から、親戚関係になります。よっぽど、陶謙より劉備がマシと感じたのでしょう・・・・・・

 

関羽との不仲

 

その後、麋芳は兄と一緒に流浪しながら劉備を支えていきます。建安19年(214年)に劉備は益州の劉璋(りゅうしょう
)
を討伐して蜀を手に入れました。兄の麋竺は蜀の劉備のもとで、弟の麋芳は荊州の関羽のもとで働きます。ところが、関羽は以前から麋芳のことを見下していました。麋芳は劉備の親戚です。邪見に扱ってはいけないことぐらい常識なはずです。

 

これは推測の域に過ぎないのですが関羽の悪い癖が出たのでしょう。関羽は武将にしては珍しく『春秋左氏伝』を読破するなど、儒学の知識がある程度備わっていました。儒学で卑しいと思われていたのは「商売」です。商人出身の武将である麋芳は関羽から見れば、「中途半端武将」にしか見えなかったのでしょう。

 

ちなみに関羽と不仲だった人物はもう1人います。公安の太守である士仁です。この人は小説『三国志演義』だと傅士仁という名前で登場します。北宋(960年~1127年)の司馬光(しばこう
)
が執筆した『資治通鑑』も、このネーミングです。どちらが正しいのか分かっていません。この記事では正史を基準にしているので、士仁で通します。

 

士仁は劉備にいつから仕えているのか分かりませんし、詳細な経歴も不明です。小説だと麋竺・麋芳兄弟と同じ時期からという設定でした。とにかく荊州はギスギスした職場でありブラックです・・・・・・

 

麋芳と傅士仁の降伏

 

建安24年(219年)に関羽は樊城の曹仁を攻撃する決意を固めます。早速、麋芳と士仁に物資の提供を持ちかけました。しかし2人は全くやる気無し・・・・・・「関羽将軍1人で頑張ってください」という感じです。それだけならよいのですが、麋芳は火事を起こしてしまい、大事な軍の道具を焼いてしまいました。

 

キレた関羽は「帰ったら絶対に許さん」と言って出陣。麋芳はビビッてしまい、それからどうすればよいか分からなくなります。樊城を包囲した関羽は曹仁の援軍としてやって来た于禁・龐徳も破ってしまいます。絶体絶命のピンチに陥った曹操は、孫権と同盟を結びます。孫権は関羽と荊州の領土問題でもめていたので、曹操の提案に喜んで承諾しました。関羽が留守になっているので、ほぼ空き家同然。残っている兵士もそんなに強くありません。孫権は一気に急襲しました。襲撃された士仁は、なす術もなく降伏。

 

関羽を捕縛する馬忠

 

麋芳も城を渡します。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『呉録』によると、麋芳は火事の一件を起こした後に関羽の処罰を恐れて、すぐに孫権と内通を始めていたのです。この2人の降伏により、荊州は陥落。関羽は戦死しました。

 

麋芳、虞翻のパワハラを受ける

 

さて、呉(222年~280年)に降伏した麋芳と士仁ですが、その後はどうなったのでしょうか?士仁の消息は分かっていません。おそらく、降伏から間もなくしてこの世を去ったのでしょう。麋芳は散々でした。ある日、麋芳が船で移動していると虞翻の船とすれ違った。麋芳の部下が「麋芳将軍が通ります」と言うと、虞翻は「南郡も公安も失った人が将軍ですか?よく主君に仕えることが出来ますね?」と嫌味を述べました。恥ずかしくなった麋芳は返答も出来ずに船のドアを閉じてしまいます。

 

またある日、虞翻(ぐほん
)
が馬車で出かけていると虞翻の陣地に到着します。しかし門が閉じられていました。

「城門を閉めるべき時に開けて降伏、開ける時には人を入れない。本当に道理が分かっている」と虞翻は、また嫌味を述べます。麋芳は大人しく門を開けました。

 

虞翻は于禁(うきん)の時もそうですが、降伏した武将には容赦ない人物です。麋芳は胃が痛い思いをしたでしょう。麋芳は賀斉の配下となり、正史では呉の黄武2年(223年)までは確認がとれますが以降の消息は不明となります。おそらく同時期には亡くなったのでしょう。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が麋芳と士仁に関しての解説でした。小説(三国志演義)でも麋芳は全く良い人物として描写されていません。長坂の戦いでは曹操軍に立ち向かっていく趙雲(ちょううん)を寝返ったと劉備にチクるのです。これは後年、彼が逆に蜀を裏切るという伏線だったのでしょう。

 

羅貫中(らかんちゅう)も憎い演出をしたものです・・・・・・

 

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