元々は、無学文盲な低い身分に生まれながら、孫権の学問をせよの一言で発奮して、文武両道の名将になった呉の大都督呂蒙。ついには、策謀によって三国志のレジェンド関羽を討ち取るという大金星を挙げ、荊州南郡を呉にもたらします。しかし、この呂蒙、性格はというとかなり意地悪な性質が悪い人物だったようです。
今回は、正史三国志から呂蒙が仕掛けた性質が悪いドッキリを紹介します。
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零陵を攻めあぐむ呂蒙
建安十九年(西暦214年)益州を平定した劉備は、郝普という人を零陵太守に任命します。ほどなく孫権は劉備に「益州を得たんだから荊州三郡を返せ」と言いますが、劉備は今度は涼州を取ってからと、まともに話し合いには応じませんでした。孫権は怒り、零陵、長沙、桂陽に太守を派遣しますが南郡を守備する関羽に追い返されます。
孫権「上等だ!狼中年め、目にモノ見せてやる」
激怒した孫権は秘密兵器の呂蒙を出撃させ、三郡を攻め取らせようとします。呂蒙は首尾よく長沙と桂陽を落としましたが、零陵では郝普がふんばり、なかなか落ちませんでした。
その間に、劉備は益州から戻り、公安にやってきたので、関羽は荊州二郡を奪回すべく、益陽に駐屯する魯粛の所へ進軍してきます。
「まずい、魯粛がヒゲのやつにやられそうだ、子明援軍に行ってくれ」
孫権は、飛書(速達)を呂蒙に送って、零陵は捨て置くように命じます。しかし、呂蒙は残念でなりません。そこで、陣内に鄧玄之という郝普の知人を呼び、ひとつドッキリを仕掛けようと考えたのです。
不安を煽り郝普を降伏させる呂蒙
呂蒙は、鄧玄之に次のような嘘話を吹き込んだそうです。
「郝子太は、忠義一徹で世間に聞こえ、同時にいつもそうありたいと思っているとか誠に立派だと思うが、惜しいかな時勢を知らないようだ。
劉備はまだ漢中にあり、夏侯淵に包囲され、南郡の関羽には我が殿の大軍が向かっている。
最近では、樊本の屯営が敗れて、これを救おうとして逆に孫規に破られている。
君は、劉備か関羽の援軍があると信じて守っているが、とんでもない話であって、零陵を救うどころか、自分の命を守るので精一杯だ。
例えるなら、牛の蹄に生じた水たまりにいる小魚が、いつか大河に還れる日を待ちわびるようなものだ。そんな日はついに来ず、水たまりは干上がり死んでしまうのがオチだ。
よしんば、状況がどうであろうと主君の為に忠義を貫くというのなら、それもいいだろう。私も全力を尽くして君を討とう。
だが、明朝、我が精鋭が城を攻めれば、城は呆気なく落ち、見上げた忠義も水の泡になり我が身は討ち死に、百歳の老母の白髪頭にまで、逆賊として刃物が下りてしまうのだぞ?
よくよく考えよ、君は情報を遮断され、ありもしない期待に縋っているだけだ」
どうやら、郝普は忠義一徹でも情報収集が出来なかったようです。本当は劉備が公安にまで迫り関羽が進撃していて、間もなく包囲が解ける事も知らず、説得に応じて城を出る事を承諾しました。
呂蒙は大笑い膝から崩れ落ちる郝普
手筈が上手く行った事を鄧玄之が手紙で呂蒙に知らせると、呂蒙は四人の将に命じ、兵を百名ずつ伏せて郝普が城門を出たら、急いで城内に入りこれを守るように命じます。すっかり嘘を信じ込んだ郝普が城を出ると、伏せていた四将は兵士を城内に入れて、城門を閉じてしまいます。
変だな・・と思う郝普の前に、仕掛け人の呂蒙が登場。郝普の手を取り共に舟に乗り込みました。そして、舟が岸を離れると、呂蒙は自分の名を名乗り、やがて我慢できなくなったように、懐から飛書を取り出して郝普に渡し、大笑いして手を叩きました。何事かと思って郝普が飛書を読むと、そこには劉備が公安に迫り、関羽が魯粛と事を構えようとしているから、呂蒙に零陵を放棄して魯粛の援軍に行くように命じた事が書かれていました。
(だ、、、騙されたのか・・)
郝普は、呂蒙の嘘八百に完全に乗せられていた事実を知り、愕然として膝から崩れ落ち、地面に突っ伏して後悔しました。
やーい、やーい、引っ掛かった!ばっかでー!もう少し辛抱していれば城が守れたのによーざんねーん、おっしいなぁー
と言ったかどうか分かりませんが、呂蒙は、余りにも自分の計略がズバリ的中したので、我慢できなくなってネタばらしをしたのでしょう。
郝普は呉に降り、呂蒙は三郡を落とす
知略によって荊州三郡を落とした呂蒙は、孫皎に後を託して益陽の魯粛を支援すべく進軍、この後に起きたのが、魯粛の単刀赴会で呉は劉備と協議し領土問題は一度は決着しました。完全にドッキリに引っ掛かった郝普は、もちろん劉備に合わせる顔もなく、仕方なく呉に仕えますが、忠義の人だけあって真面目に勤め、九卿の一つである廷尉まで昇進しています。
結果としては誰も死なないので、陰惨さがないのは救いですが、見せなくてもいい飛書をわざわざ郝普に見せつけて馬鹿にし、大笑いして手を叩くというのは呂蒙のガキっぽさというか、なかなかの性格の悪さを垣間見せている気がします。
三国志ライターkawausoの独り言
呂蒙と言うと青年期はともかく、学問をしてからは、理路整然とした大人イメージですが、やはり、ガキ大将だった昔は完全に消え去るものではなく、こうして、ふとした時に現われてしまうもののようです。
参考文献:正史三国志呂蒙伝
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