「男子、三日会わざれば刮目して見よ」は三国志の呂蒙が語源?

2021年6月22日


 

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指揮を取る呂蒙

 

有名な慣用句に「男子、三日会あわざれば刮目(かつもく)して見よ」というものがあります。実はこの慣用句、三国志で有名な武将「呂蒙(りょもう)」のエピソードが語源だという事をご存知でしょうか。

 

今でもたまに使われるこの慣用句の意味と、その成り立ちを今回の記事では解説していきます!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「男子、三日会わざれば刮目して見よ」の意味

勉強に励んで文字も読めて賢くなる呂蒙

 

「刮目」とは「目をこすって見ること、注意して見ること」。この慣用句の意味は「三日もたてば人は変わることが出来る、たった三日会わないだけでもその人を注意してみることです。」といった意味です。

 

呂蒙

 

「男子」となっていますが、もちろんすべての人間に当てはまることです。この慣用句が生まれたのは三国時代の呉の名将、「呂蒙」のエピソードが基になっています。

 



呂蒙は無学だった

貧乏だった若き呂蒙

 

呂蒙は元々は貧しい家に生まれ、親戚が従軍したことから、それに無謀にも付いていったことで出世への糸口をつかみました。

 

呉の小覇王・孫策

 

カッとなって人を殺すなど、かなりヤンチャな時代もありましたが、その才能を孫策(そんさく)に認められ、呉軍の中心武将として働くことになります。

 

字が読めなくてバカにされる呂蒙

 

軍事に大いに力を発揮し、数々の戦で功績をあげました。しかし、呂蒙は学問をしたことが無かったため、字もかけず、教養もありませんでした。

 

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孫権に学問を勧められ、一念発起する

策略が得意な呂蒙

 

呂蒙は重要な武将でしたが、学がなかったことを陰ではからかわれていたようです。

 

呉下(ごか)阿蒙(あもう)」という言葉があります。これは「呉の町の蒙ちゃん」という意味で、呂蒙は子供扱いされていたようです。

 

孫権から学問を身に着けろと言われる呂蒙

 

そんな呂蒙を見かね、当時の主君の孫権は呂蒙に学問を勧めました。しかし、呂蒙は「多忙でござる」と、学問をするのを拒否していました。

 

しかし孫権は食い下がり、「なにも学者になれ、というのではない。せめて書物を読んで見識を広めるのだ、戦にも役に立つだろう」と呂蒙を説得しました。

 

勉強する呂蒙

 

そこまで言われては勉強しないわけにはいきません。呂蒙は勉学に励むようになったのです。そしてついには学者も驚くような学識を身に着けることができたといいます。

 

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「士、三日会わざれば刮目して見よ」

魯粛

 

呂蒙の評判は日に日に高まっていきました。呉の同僚「魯粛(ろしゅく)」は正直、教養のない呂蒙の事を馬鹿にしていました。しかし、呂蒙の最近の勉学の事を聞き、本人を訪ねてみることにしました。そのとき魯粛は関羽(かんう)の領地と接する最前線に配置されていました。

 

酒の席で呂蒙は魯粛に尋ねました。

 

青龍偃月刀を持つ関羽

 

「あなたはどのような計略によって関羽に備えていますか?」

「その時になったら考える」と、魯粛は適当に答えてしまいました。

 

セクシーすぎる塩商人だった関羽

 

すると呂蒙は

「関羽は強敵ですよ。どうして計略を立てずにいられましょうか。」と瞬く間に5つの策略を語り、議論でも魯粛をやり込めてしまったそうです。

 

魯粛は席を立ち、呂蒙の背中をたたきながら、

「ここまで学識が高まっているとは思わなかった。もう、“呉下の阿蒙”とは言えないな。」と驚き呂蒙を称えました。

 

呂蒙は

「士たるものは3日になれば目をこすって気持ちを新たに向き合うべきなのです。」と語りました。

 

これが「士、会わざれば刮目してみよ」という慣用句の語源となったのです。

 

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関羽

 

 

その後の呂蒙

五関六将破りを行う関羽

 

呂蒙はその後、関羽と対峙することになります。関羽は流石に強敵で、正攻法では倒すことはできません。

 

関羽の救援要請をシカトする劉封

 

そこで呂蒙は今までの知識を生かし、様々な策略によって関羽を追い詰めることに成功します。呂蒙は関羽の周辺人物の心をつかむことを優先し、領地の民を手厚く保護したり、関羽の部下に丁重に接するなどしました。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

走していくうちに関羽の部下たちは戦意を喪失していき、ついには関羽を捕えることに成功したのです。これらの策略も武一辺倒ではとてもできなかったことで、呂蒙の努力の成果がでたと言えますね。

 

穴から呂蒙を覗く孫権

 

関羽を討った後、呂蒙は病床につくことになってしまいます。

 

呂蒙が病気になり心配で仕方ない孫権

 

孫権は彼を心配し、様々な手立てを尽くしましたが、結局は亡くなってしまいました。42歳の若さでした。

 

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三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

3日会わないだけで人は変わりますよ、というのは日々努力している人に当てはまる言葉ですよね。

 

自分の人形を操る呂蒙

 

自分も研鑽(けんさん)を怠らず、しばらく会わなかった人に「いい意味で変わったな」と言われるようにしたいものです。呂蒙のエピソードが現在まで伝わっているという事はこの言葉がいかに重要かをし増していますよね。

 

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呂蒙

 

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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