【孔明VS周瑜】初対面からすでに負けていた周瑜を考察


 

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矢を集める諸葛亮孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)周瑜(しゅうゆ)は『三国志演義』で激しい知略戦を何度も繰り広げました。百万本の矢集め、東南の風起こし、南郡争奪戦、劉孫政略結婚・・・・・・

朝まで三国志2017追加22 周瑜

 

最終的に周瑜が諸葛亮に敵わないと認めて命を落とします。しかしながら、建安13年(208年)から建安15年(210年)までは熱いドラマが展開されました。ところで、諸葛亮と周瑜はどうやって知り合ったのでしょうか?

 

今回は『三国志演義』をもとに周瑜と諸葛亮の最初の出会いについて語っていきます。

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛亮 呉へ出張

孔明

 

建安13年(208年)に劉備(りゅうび)は長坂で曹操(そうそう)と戦って敗北。曹操が次に狙うのは呉(222年~280年)の孫権(そんけん)。劉備の軍師である諸葛亮は兄の諸葛瑾(しょかつきん)が呉にいるので、それをツテに魯粛(ろしゅく)と一緒に呉まで行きます。その頃、呉では主戦派と投降派が毎日議論を重ねていました。主戦派は徹底抗戦を主張、投降派はさっさと曹操に降伏して余生を過ごす気満々。

 

孫権はこの時、まだ27歳。政治家としては若手であり投降派の二枚舌に言いくるめられそうでした。たとえ戦争を起こしても多くの民や兵が死んでしまう。だけど投降すれば父と兄が心血注いで築いた領土を失ってしまう。

 

「どうすればいいんだよ」と孫権は八方塞がりでした。

 

諸葛亮と魯粛からも開戦の提案を受けるも孫権はいまいち乗り気になれません。そこでママの呉国太に相談。するとママから「周瑜に相談しなさい」と言われます。孫権の兄の孫策も死ぬ間際に、「軍事のことで分からなかったら、周瑜に聞け」と言い残していたので、孫権はすぐに周瑜を呼びました。

 

変節漢 周瑜?

周瑜

 

ところが、呼ばれた周瑜は何を考えているのか投降派の張昭(ちょうしょう
)
が屋敷に訪ねてくると、「私も曹操にはビビッていました。明日、みんなで孫権様を説得しましょう」と言う始末。周瑜は、ただのチキンになっています。だが、周瑜は黄蓋や程普が来ると「曹操なんて、みんなでボコボコにしてやろう」と息巻きます。諸葛瑾や呂範のように、態度を決めれない人が現れると「私もよく分からないんだ。明日みんなで考えよう」と悩みます。

 

これだけ見ると周瑜が人によってコロコロと態度を変える変節漢にしか見えません。ところが、周瑜は呉の内部事情が知りたかったので、敢えて自分の本心にウソをついて演義をしていました。もちろん周瑜の本心は主戦です。

 

周瑜 開戦の決意

周瑜の魅力

 

やがて周瑜は魯粛のススメにより諸葛亮と会見。ちなみに、これが周瑜と諸葛亮の初対面でした。仲介役の魯粛は1人で大盛り上がり。

 

「周瑜殿、明日は孫権様を開戦に向けて説得してください。今日は大いに飲みましょう」

 

「何を言っているのですか、魯粛殿。私は別に戦いませんよ」

 

全く考えていなかった答えが周瑜から出たので魯粛はびっくり。怒りに震えて大変・・・・・・

 

「あなたは呉の全軍を任されている身でしょう!それなのに、降伏なんてなんと恥知らずな・・・・・・」

 

情けないので魯粛は「諸葛亮殿、あんたも何か言ってくれ」と頼む始末。すると諸葛亮の口から驚愕のコメントがさく裂。

 

「周瑜殿の考えは実に的を得ている。むしろ魯粛殿の方がダメですね」

 

「なんで私がダメなんですか?」

 

「周瑜殿は損害を出さずに勝利することを考えているのです。兵法にも戦わないで勝つことが最善とあるじゃないですか」

 

諸葛亮の話を聞いた周瑜は「諸葛亮殿の言う通り」と拍手喝采。魯粛は2人についていけずに沈黙。

 

「一兵の損害も出さずに曹操に撤退してもらう策を私は知っていますけど聞きますか?」と諸葛亮は尋ねました。

 

これには魯粛だけではなく周瑜もビックリ!そんな魔法のような作戦があるなら、ぜひ使わないと損です。

 

「呉には大喬・小喬という絶世の美人がいます。曹操は昔から2人を側室にしたいと願っています。2人を人質に出せば曹操は大人しく領地に戻るでしょう」

 

「それは噂ではないですか?」と顔色が悪い周瑜。「本当だよ」と諸葛亮。

 

「証拠は?」

 

「曹操の息子の曹植は詩に優れています。彼は曹操の気持ちを表現した詩を吟じていますので、お聞かせしましょう」

 

諸葛亮は暗唱している詩をスラスラと吟じていきました。内容は大喬・小喬と一緒に余生を過ごしたいという曹操の願望でした。すると周瑜の悪かった顔色が、段々怒りの形相に変わりました。

 

「もういい!」と周瑜は諸葛亮を怒鳴りつけました。ところがヒステリック周瑜に諸葛亮は全く動じる気配無し。

 

「女を差し出す程度で平和が手に入れられるのですから、実に簡単なこと。それなのに周瑜殿は何をわめいているのですか?」

 

「お前がさっきから解説している2人の女性に問題がある。大喬というのは亡き孫策殿の、小喬は私の妻だぞ!」

 

それを聞いた諸葛亮は「知らずに無礼なことを申しました」とあわてて周瑜に謝罪。しかし周瑜の妻が小喬であることは世間では有名な話。実は諸葛亮は周瑜を開戦に誘導するために、わざと曹植の詩を周瑜の前で披露したのです。

 

もちろん周瑜は「曹操、●す!」と戦闘モードに入っています。こうして諸葛亮の巧みな誘導により開戦を決意した周瑜の説得で孫権も戦うことを決めます。ここに赤壁の戦いが幕を開けました。うまく誘導されたことに気付いた周瑜は諸葛亮の才能に恐れを抱いてしまい、彼に殺意を抱きました。諸葛亮と周瑜の2年間に渡る戦いが始まったのでした。

 

三国志ライター 晃の独り言 良き一品を手に入れた

三国志ライター 晃

 

私は趣味で古本を収集している。稀にあるのだが以前の持ち主が、有名大学教授だったことがある。今回は『中国古代史研究7』(研文出版 1997年)という本を入手したが、前の持ち主は久保田文次という大学教授である。なぜ彼と分かったのかというと、「謹呈」と書かれていたからである。贈った人物は奥崎裕司と原宗子という大学教授。

 

いずれも大学教授であった。ちなみに奥崎氏は中国史の業界では有名人。中国史を勉強している人なら1度は聞いたことがある名前だろう。いつもならば、すぐに線引きで読んでいるのだが、これはやりづらいので今は本棚に大切に保管しています。次は誰の本が私のもとに来るのでしょうか?

 

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赤壁の戦い

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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