陳寿は正史『三国志』の著者です。最初は蜀(221年~263年)に仕えましたが、蜀滅亡後は西晋(265年~316年)に仕えます。西晋で陳寿が執筆したのが日本でも有名な歴史書『三国志』です。今回は正史『三国志』の著者陳寿と『三国志』に注を付けた裴松之に関して解説します。
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司馬炎から認められる執筆者・陳寿
陳寿は益州巴西郡安漢県の有力豪族「安漢四姓」の陳氏の出身です。父親は蜀の建興6年(228年)の諸葛亮の第一次北伐で馬謖に従軍。しかし、北伐は馬謖が敗北したことにより撤退となります。陳寿の父はこの時、馬謖と一緒に責任をとらされて処罰されました。死刑にはならなかったようですが、「髠刑」にされます。髠刑は髪を切られる刑罰であり、親からもらった体を傷つけられるということで非常に屈辱的な刑罰です。
陳寿は若い時に譙周に弟子入りして学問を習います。譙周は蜀が滅亡する際に劉禅に降伏を促した人物でした。蜀が滅亡すると、西晋の泰始4年(268年)に司馬炎に仕えました。最初は国史編纂官補佐である佐著作郎です。
この時期に執筆した『益部耆旧伝』を司馬炎が読んで大絶賛!泰始5年(269年)に著作郎に昇進します。ちなみに『益部耆旧伝』は散佚しましたが、正史『三国志』の裴松之の注に残っています。
大物のパトロンを得る陳寿
陳寿はその後も多くのパトロンを得ました。最初は荀勗と張華。荀勗は荀彧の子孫、張華の妻は曹丕・曹叡から信頼を置かれた劉放の娘を娶っている人物であり、2人とも司馬炎の側近です。荀勗・張華の推薦で陳寿が完成させたのが『諸葛氏集』です。また、咸寧4年(278年)には呉(222~280)の討伐論者である杜預も陳寿を推薦しています。
杜預は呉を滅亡させた功績だけではなく、『春秋左氏伝』のマニアだったことで有名です。杜預が陳寿を推薦したのはおそらく、彼を呉の討伐派に入れるためだったと推測されます。このように陳寿は多くのパトロンを抱えており、順風満帆な官僚生活を送っていました。
『三国志』の執筆と人生転落!
だが、人間は栄光あれば必ず陰ありです・・・・・・陳寿は、張華・杜預など呉の討伐論者ばかりに接触しすぎていました。それが呉の討伐に対して消極的だった荀勗の恨みを買うことになります。太康元年(280年)に西晋は呉を平定して天下を統一します。この時期から陳寿は『三国志』の執筆を開始しました。
ところがしばらくすると、荀勗と張華は政治的対立を起こします。結果は張華の敗北。張華の派閥に所属していた陳寿は左遷されました。陳寿は太康3年(282年)前後に母親の喪に服すために辞任。そして永康元年(300年)にこの世を去りました。『三国志』が筆写されて宮中に収められたのは、なんと彼の死後の話でした。
歴史学のお手本 裴松之の注
陳寿が亡くなってから約150年の時が流れました。西晋は滅んで中国の南部に宋(420年~479年)が建国されていました。劉氏が建国したので「劉宋」と呼ばれることもあります。宋に裴松之という歴史家がおり、この人が宋の第3代皇帝文帝の命令により、正史『三国志』の注を作りました。
仕事の1つでしたが、裴松之の意思でもあります。裴松之は『三国志』を読んだ時に非常に分かりやすいことに感心しました。ところがマイナス点にも気づきました。三国時代をリアルタイムで生きた人が陳寿の簡単な文章を読んでも、「この話はこういう意味です」とすぐに答えれます。だが、三国時代終了後に誕生した人が『三国志』に目を通しても、何のことか意味不明です。
そこに気付いた裴松之は陳寿が採用しなかった史料にも目を通して、どこが間違っているのか正確に指摘して『三国志』に掲載しました。裴松之の試みは成功して、裴松之の注は後世の歴史学のお手本となりました。
三国志ライター 晃の独り言 『キングダム』最高!
私は最近、『キングダム』を読み始めました・・・・・・「遅い!」と読者の皆様から怒られそうなレベルです。長編マンガに手を出すのは、度胸がいります!
ちなみに私のお気に入りキャラクターは河了貂です。まさか女だったとは思いませんでした。成長するにつれて、絵が進化してものすごく可愛くなっている。まだ25巻までしか読んでいないが、これからが楽しみです。
・高島俊夫『三国志 人物縦横断』(初出1994年 後に『三国志きらめく群像』 ちくま文庫 2000年に改題)
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