本日のテーマは、趙雲の生涯を正史で追っていこう、というものです。趙雲は三国志演義では五虎将軍に任命され、関羽や張飛、馬超や黄忠らと肩を並べて評価された名将。
劉備に長く仕え続けた忠義の将を、年表を追うように見ていくというのが今回のテーマです。では早速、まず前半生から見ていきましょう。
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趙雲の前半生
趙雲は公孫サンの配下から、青洲での袁紹との戦いの際に劉備と合流してその後は劉備に付いていくことになります。この際に趙雲が公孫サンの配下から劉備の配下になった理由は、詳しく説明されてはいません。
なぜならこの時から次の趙雲の歴史は大きく長坂の戦いまで飛び、劉禅と甘夫人の保護した、という場面まで飛びます。三国志演義では趙雲の単騎駆けが有名な長坂の戦いですが、正史三国志では趙雲の単騎駆けのシーンはなく、ただ保護したと記されるのみです。
また入蜀の際には荊州に留まり、後に張飛らと一緒に入蜀、江陽攻略に参戦したと言います。ここまででも正史を見たことがないと少し驚くと思いますが、何と次は劉禅の代に続きます。その後半生をざっくりと見ていきましょう。
趙雲の後半生
劉禅の代になってからは北伐に参戦し、曹真に敗北しました。しかし趙雲の働きにより被害は少なく抑えられたとされています。そして驚くことに、趙雲の歴史はここで終わります。
実は趙雲の正史に置ける記述は、非常に少ないものなのです。三国志演義での趙雲の活躍を見ているとその簡素な記述に驚くことでしょう。ではどうしてあんなに三国志演義での活躍が描かれたのか?
それは趙雲別伝にあります。
趙雲別伝と三国志演義
正史三国志には、他の書物などから注釈がいくつか引かれていることがあります。そして趙雲に関しては、この他の書物、趙雲の活躍を記した趙雲別伝という書からの注釈がとても多く引かれているのです。
このため注釈部分を除くととても簡素なものになるのです。とは言えこの注釈に関しては趙雲だけでなく、他の武将に関しても多く引かれていることがあるので別に趙雲だけが特別記述が少ないという訳ではありません。
しかし趙雲の地位ですが、劉備が蜀の地を手に入れた際にはなんと魏延の漢中太守よりも下の位置であり、とても演義で五虎将軍に任命された時期と同じとは思えないほどです。その一方で趙雲は諸葛亮に良く評価されていたとも言われていますが、これについて少し考えてみました。
趙雲がどうして諸葛亮に評価されていたのか?
趙雲と肩を並べる武将たちを振り返ってみると、関羽や張飛は趙雲よりも長い付き合いの人物で、対する黄忠や魏延は新参でありながら蜀の地を手に入れる際に功績が大きい。
馬超は地方とは言え元君主……つまり評価がしにくい人たちばかりです。
古参を評価すれば新参が重用されないと言われ、新参を評価すれば古参が重用されないと言われる。人事とはいつの世も難しいものです。そこを考えてみると、趙雲にそのしわ寄せが行ったのではないか?と思ってしまいます。
そういった点から劉備がいなくなった後の難しい時期の諸葛亮にとっても、それまでの難しい人事からしても、趙雲は蜀にとってとてもありがたい存在であったのだと感じました。
そんな趙雲だからこそ、後の世で忠義の人とされたのかもしれませんね。
三国志ライター センのひとりごと
趙雲は忠義の人と良く言われます。趙雲の歴史を追っていくと、実際は三国志演義ほど華々しく評価されていない所から、もしかして趙雲は蜀の人事において少し割を喰っていたのでは……と思いました。
ですがそんな不満がでそうな用い方をされていたとしても、変わらない趙雲の忠義の深さは、諸葛亮にも、そして劉備にもありがたかったのではないでしょうか。だからこそ趙雲は趙雲別伝や三国志演義でしっかりとその忠義を描写されたのかもしれません。そう思うと正史の記述の少なさもその飾らない、実直な趙雲の人柄が読み取れるような気がしてきますね。
参考文献:蜀書趙雲伝 趙雲別伝
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