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この記事の目次
呉に二宮が並立、丞相顧雍が死去
ところが同年8月、孫権は一度、孫和を立てながら異母弟の孫覇を魯王として立てます。これが二宮の変の大きな火種を産み出します。孫権は孫和と孫覇を平等に遇しましたが群臣から不満が噴出したので、孫権は別々に宮殿を建て、二宮を置き二人を引き離します。
これにより呉の群臣は、孫和派と孫覇派に分離して生き残りをかけ、互いを罵り引きずり降ろそうと運動するようになります。そんな最中、西暦243年11月、19年間も宰相の地位にあった顧雍が病死。後継には陸遜が就任しますが、荊州統治を任されていたので建業に戻れず、帝都には宰相が不在という異常事態が発生したのです。
舵取り役不在のまま、建業では孫和派・孫覇派の暗闘が続き、やがて爆発の時がやってきます。
三国志ライターkawausoの独り言
呂壹の事件は、それまで利害対立を抱えつつもギブ&テイクでやってきた孫権と呉の豪族勢力に決定的な溝を産み出しました。しかし、老齢で引退が近い孫権には、優秀な皇太子の孫登がいて豪族は孫登との関係構築にシフトしていたのです。
ところが孫登の急死で後継者問題は白紙となり、さらに孫権が孫和と孫覇を並立させた事で豪族は血縁や関係の近さで、二宮のどちらかに属しないといけない事態になります。生き残りをかけ、呉の豪族は国を二つに分ける血の騒乱に突入しました。
参考文献:正史三国志
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