

西暦236年、呉の重鎮である張昭が病死しました。孫権に対して、強く意見できた張昭の死と蜀呉同盟の安定、それに孫権自身の高齢化もあり、これまで抑えられていた孫権の我の部分が強く出て、家臣との間の軋轢が起き始めます。
この状態に皇太子孫登の病死という後継者問題が追い打ちを掛け、呉は三国一の凄惨な粛清疑獄二宮の変に突入していきます。
この記事の目次
行政改革に呂壹を登用し苛斂誅求を許す
孫権には若い頃からの悩みがありました。それは、呉では豪族の力が強すぎて、孫権の政府の定めた法令が公然と無視される事です。例えば呉では、県令や郡太守についている役人でも、肉親が死んだ事を知ると後継者も決めずに即座に職を棄てて、故郷に帰り三年の喪に服すのが横行していました。
孫権は、「服喪は麗しい古来の人情だが、それは時と場合による、現在のような乱世では私情を抑えて法律を守らねばならない。だからこそ、服喪は後任を決めてからと罰則を造ったのだ。役人は人民に模範を示す役割なのに、率先して破るんじゃあないッ!」と何度も詔を出しますが、豪族の集まりである呉では、それがなっかなか浸透しないのです。
こんな具合で、一々孫権の命令を守らないので、孫権は呂壹や秦博を中書に任命して、諸官庁や州郡の公文書の検査監督に当たらせます。しかし、呂壹はいわゆる酷吏であり法律を厳密に適用しすぎ、些細な罪でも、針小棒大に拡大解釈して違反者を投獄する男でした。
ところが、このような酷吏の仕事ぶりは上司の孫権から見れば、頑張っているように見えます。孫権は呂壹を増々重用し、孫権の威光を嵩にきて呂壹はさらに横暴に振る舞いました。
呂壹の悪事を知り、これを処断する孫権
呂壹は、酷吏であるというだけではなく汚職にも手を染めはじめます。専売品や特産品を自由に売買して私腹を肥やし、また、私怨で呉の重臣達も次々と投獄します。
例えば、朱拠は部下が大銭を横領したという疑いをかけられたばかりか、朱拠当人も呂壹の讒言を信じた孫権により無実の罪で数ヶ月も拘禁されました。鄭冑は建安太守時代に呂壱の食客が法に触れたので逮捕投獄して、厳しい拷問に掛けて殺したので、呂壹に恨まれ孫権に讒言されました。
これまた孫権は信じて激怒、鄭冑を召還して尋問しますが潘濬と陳表が弁護したので釈放されます。呂壹の横暴を憎んだ潘濬は、建業までやってきて会合を開き、自分が殺人の罪を被る事で呂壹を殺害しようとしますが、異変を察知した呂壹は病気と称して会合に参加せず失敗に終わります。
ところが、その後も呂壹の悪事は止まず、皇太子の孫登や歩騭、李衡の告発が相次いだので、孫権も捨てておくことが出来ず、呂壹を調べさせるとボロボロと悪事が発覚し238年についに逮捕。取り調べの末に処刑されます。
重臣に謝罪するが溝が埋まらない孫権
呂壹の事件は孫権の行政改革の過程で起きた事であり、自由を奪われた豪族たちは、呂壹ばかりではなく、孫権に対して大きな不満を持ちました。孫権は自ら笞を背負うというパフォーマンスをして、全ての罪が自分にある事を認め、同時に「君達とは半世紀の付き合いであり、君臣と言うより身内のような関係だ。なのに、今回の出来事で私を見放すとは薄情すぎるじゃないか!私は君達の諫言だけが頼りなのだから、今後も遠慮のない意見を出してくれ」と逆切れしつつ謝罪します。
しかし、今回の事件では諸葛瑾でさえ、孫権を庇おうとはしませんでした。後に二宮の変で呉の豪族が二分されて争うタネは、この孫権の求心力の低下に関係していたのです。
皇太子孫登の死
それでも、この時点では豪族たちは呉の命運について楽観し希望をもっていました。孫権には、まだ30歳になったばかりの聡明で優しい性格で知られた皇太子の孫登がいたのです。孫権も聡明な皇太子の存在に大きな期待をかけていましたが、西暦241年の5月、孫登は芍陂の役の途中に33歳の若さで病死します。
孫権は皇太子の死に衝撃を受け、優勢だった呉軍を退却させた程ですが、その途中で重臣、諸葛瑾も病死しています。孫登は孫権が王夫人の産んだ孫和を寵愛していた事を承知していて遺言において、次の皇太子を孫和と指名していました。
孫権もこれを受けて、西暦242年の正月に改めて孫和を皇太子に指名します。哀しい出来事でしたが、孫登の配慮で後継者問題は収束したかに見えました。
呉に二宮が並立、丞相顧雍が死去
ところが同年8月、孫権は一度、孫和を立てながら異母弟の孫覇を魯王として立てます。これが二宮の変の大きな火種を産み出します。孫権は孫和と孫覇を平等に遇しましたが群臣から不満が噴出したので、孫権は別々に宮殿を建て、二宮を置き二人を引き離します。
これにより呉の群臣は、孫和派と孫覇派に分離して生き残りをかけ、互いを罵り引きずり降ろそうと運動するようになります。そんな最中、西暦243年11月、19年間も宰相の地位にあった顧雍が病死。後継には陸遜が就任しますが、荊州統治を任されていたので建業に戻れず、帝都には宰相が不在という異常事態が発生したのです。
舵取り役不在のまま、建業では孫和派・孫覇派の暗闘が続き、やがて爆発の時がやってきます。
三国志ライターkawausoの独り言
呂壹の事件は、それまで利害対立を抱えつつもギブ&テイクでやってきた孫権と呉の豪族勢力に決定的な溝を産み出しました。しかし、老齢で引退が近い孫権には、優秀な皇太子の孫登がいて豪族は孫登との関係構築にシフトしていたのです。
ところが孫登の急死で後継者問題は白紙となり、さらに孫権が孫和と孫覇を並立させた事で豪族は血縁や関係の近さで、二宮のどちらかに属しないといけない事態になります。生き残りをかけ、呉の豪族は国を二つに分ける血の騒乱に突入しました。
参考文献:正史三国志
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