139話:酷吏呂壹の登用と孫権の謝罪


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酷吏呂壱の登用と孫権の謝罪(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呉に二宮が並立、丞相顧雍が死去

孫権に気に入られる孫覇

 

ところが同年8月、孫権は一度、孫和を立てながら異母弟の孫覇(そんは)を魯王として立てます。これが二宮の変の大きな火種を産み出します。孫権は孫和と孫覇を平等に遇しましたが群臣から不満が噴出したので、孫権は別々に宮殿を建て、二宮を置き二人を引き離します。

 

これにより呉の群臣は、孫和派と孫覇派に分離して生き残りをかけ、互いを罵り引きずり降ろそうと運動するようになります。そんな最中、西暦243年11月、19年間も宰相の地位にあった顧雍(こよう)が病死。後継には陸遜が就任しますが、荊州統治を任されていたので建業に戻れず、帝都には宰相が不在という異常事態が発生したのです。

陸遜

 

舵取り役不在のまま、建業では孫和派・孫覇派の暗闘が続き、やがて爆発の時がやってきます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

呂壹の事件は、それまで利害対立を抱えつつもギブ&テイクでやってきた孫権と呉の豪族勢力に決定的な溝を産み出しました。しかし、老齢で引退が近い孫権には、優秀な皇太子の孫登がいて豪族は孫登との関係構築にシフトしていたのです。

 

ところが孫登の急死で後継者問題は白紙となり、さらに孫権が孫和と孫覇を並立させた事で豪族は血縁や関係の近さで、二宮のどちらかに属しないといけない事態になります。生き残りをかけ、呉の豪族は国を二つに分ける血の騒乱に突入しました。

 

参考文献:正史三国志

 

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呉の武将

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-全訳三国志演義