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麒麟がくる第十六話 感想あらすじ「武士が大事にした共感力」
真の武士は強い共感力を持っていました。ある武士は、琵琶法師に平家物語の扇の的を語らせ、那須与一が見事に矢で小さな扇を射落とすと雨のように涙を流したそうです。
どうして、勇壮な場面で涙を流されたのですか?と部下が聴くと武士は与一は若くして源氏の代表として弓勝負に挑んだのだ。今回天助があり、見事扇を射落としたから良いが、外れていれば、その場で腹を斬り詫びねばならなかっただろう。武士の行動は全て死と隣り合わせだ。それを知れば泣けて泣けて仕方がないと答えました。
共感とは、見た目の可哀想さや健気さや感動に同調して涙を流す能力ではありません。少なくとも武士の共感とは、そんな薄っぺらいものではないのです。
ドラマの道三は帰蝶が用意した逃げ道を敢えて塞ぎました。何故か?道三は利政に共感したのです。ああ、我が息子は必ず道を誤ると、それが可哀想だと内心、慟哭の涙を流しているのです。
外から見れば、今から息子に討たれる人間が何を上から目線でと思うかも知れません。しかし、真の武士は一度の敗戦や勝ち戦では一喜一憂しないものでした。確かに今回利政は勝ちます、でも、戦は無限に続きいつかは敗者になるかも知れないのです。
その時、哀れなり利政、真の武士の道を知らぬ不正直者と世の人に謗られたら、それは末代までの恥、道三は父として、そうならないよう命を賭して利政にメッセージを託そうとしているのでしょう。それが真の慈愛というものです。
共感より自立、強い弧を目指せとも言われるアフターコロナの世相ですが、人間には強者などいません。全部弱者です。人は群れないと強固な文明を築けませんでした。一人で生まれ一人で死ぬ野生動物とは比較にならない無力な存在です。
シンドラーのリストという映画に、一人を救うものは万人を救うというユダヤの格言が出てきます。ただ一人でも人を救えれば、その人の子孫まで救う事になるという重い言葉です。薄っぺらい共感はいけませんが、人は誰しも弱く、誰かの助けなしに生きてはいけない。コロナ以後の世界がどうなろうと、この真実を忘れないようにしたいものです。
麒麟がきたライターkawausoの独り言
前回、今回で道三ロスと書いてしまいましたが、どうも来週のようです。ごめんチャイナドレス!次回は麒麟がきた第17回長良川の対決でお会いしましょう。
では、さいなら、さいなら、さいなら!
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