人の生涯には隠し事が多くあります。読者の皆様も家族に言えないことは、山のようにあるはずです。それは歴史上の人物にも言えたこと。特に有名な人ほど綺麗な人生であり、また悲劇的に描かれるものです。
今回は曹操挙兵当時から仕えて謎の死を遂げた軍師の荀彧の真実の姿を描きます。
この記事の目次
2つの荀彧像
荀彧を研究する際によく使われる史料は蜀(221年~263年)末期から西晋(265年~316年)初期の陳寿が執筆した正史『三国志』と東晋(317年~420年)の袁宏が執筆した『後漢紀』、劉宋(420年~479年)の范曄が執筆した『後漢書』です。
1番有名なのは正史『三国志』と『後漢書』であり、よく使われます。
ただし、2つとも荀彧の人物像が全く違っています。正史『三国志』は曹操配下として、『後漢書』は後漢(25年~220年)の忠臣として描かれており、その姿は後世の『三国志演義』やドラマ・マンガ・ゲームにも影響を与えました。
『後漢書』の執筆者である范曄は意図的に悲劇のヒーロー荀彧を作ったようです。
一致しない正史『三国志』と『後漢書』
正史『三国志』によると荀彧は永漢元年(189年)に役人に任命されて、守宮令という役職に就きました。しかし董卓の乱が起きたので地方官になることを自分から願い出て故郷に帰ります。
不思議なことに後漢書では荀彧の守宮令就任の話はありません。「ただの書き漏れでは?」と思う読者の皆様もいるかもしれませんが、これが范曄の意図的工作でした。
守宮令とは?
まず守宮令について解説します。守宮令とは宮中の紙・筆・墨を管轄する役職であり宦官が就任していました。後漢第9~10代皇帝以前は宦官ではなく士人(知識人)の役職でしたが、第11代桓帝から宦官が就任するようになったのです。
ところが袁紹・袁術が宦官大虐殺を行って以降、再び士人の手に戻ったのです。上記のことが正しければ荀彧は宦官から士人の役職を取り戻したとして、『後漢書』に書いても問題ありません。なぜ書くことが出来ないのでしょうか?
宦官の親族だったことは認めません!
1つは荀彧が宦官と親族だったからです。荀彧は宦官の唐衡の娘を娶っていました。娘といっても宦官に子孫繁栄の力は無いので、養子に決まっています。
正史『三国志』の著者である陳寿はパトロンに荀彧の子孫である荀勗がいたので直接書かずに、官職名だけ書いて読者に間接的に伝えたのです。
ただし、正史『三国志』に注を付けた裴松之や『後漢書』の執筆者である范曄は、陳寿が生きた時代から約150年以上経過しています。
陳寿の微妙な忖度を理解することは難しかったと思われます。裴松之に至っては荀彧が宦官と親族関係にあったことを否定。范曄は荀彧が守宮令に就任したことを『後漢書』から全く書きません。
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