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この記事の目次
董卓との関係
范曄が『後漢書』から抹消したのは守宮令就任だけではなく、董卓政権との関係もでした。そもそも荀彧が守宮令に就任が出来たのは董卓のおかげと考えられています。袁紹・袁術が宦官を一掃した後に漁夫の利を狙った董卓が、宮中に乗り込んで政権を掌握。
荀彧の叔父の荀爽は、不本意ながらも董卓のおかげでスピード出世しました。荀彧が役人に抜擢されたのはちょうどこの時期だったと考えられています。
はっきりと史料に明記されているわけではありませんが、おそらく董卓から命令を受けた当時の豫洲潁川郡の太守が荀彧を推薦して役人にしたのでしょう。
董卓といえば諸説はありますが、一般では極悪人で通っている人です。間接的とはいえ、後漢の忠臣である荀彧がそんな人から推薦を受けているなんて史料に書くことは出来ません。だから、范曄は『後漢書』の記述を曖昧にしているのです。
献帝保護についての違い
興平2年(195年)に曹操は長安から脱出して、李傕・郭汜から追われていた献帝を保護します。この政策を提案したのは荀彧ですが、これにも史料により違いがありました。
正史『三国志』と『後漢紀』では前漢(前202年~後8年)の初代皇帝劉邦が楚の項羽に殺された皇帝のために涙を流した故事を出す話が掲載されています。ところが、『後漢書』には上記の劉邦の話と一緒に、晋の文公が周王室を援助した話まで付け足しています。
これはどういう意味でしょうか?
俺の荀彧が張良なはずがない
違いは劉邦は晩年に皇帝即位、文公は死ぬまで周王室の家臣の身分を貫いたことです。ただし、2つの話は時代に差があるので比較するには無理があるでしょう。晋の文公の話は范曄が別の史料から持ってきたか、独自のアレンジでしょう。范曄はあくまで荀彧を「後漢の忠臣」にしたいのです。
正史『三国志』で荀彧は曹操から「私の張良である」と称賛された人物でした。張良というのは前漢建国の功臣です。
しかし前漢建国の功臣に例えられるというのは、荀彧が魏(220年~265年)建国の手助けをすることでもあります。荀彧オタクの范曄にはそれが許せなかったのです。
曹操の親族であったことすら抹消
あまり知られていないのですが荀彧の長男である荀惲は、曹操の娘の安陽公主を娶っています。つまり、曹操と荀彧は親戚関係です。『後漢書』はもちろん、『後漢紀』にすらこの話はありません。どうやら荀惲は曹植と親しかったことから曹丕に恨まれたようです。要するに荀氏一族にっては不名誉な内容でした。
曹植ファンはもちろん、荀彧ファンの歴史家にとっては抹殺するべき内容です。だから、後世に残らなかったのです。
三国志ライター 晃の独り言
今回は荀彧の真実の姿に迫りました。荀彧は『後漢書』という書物のおかがで誇大化されて、今の姿になりました。だが、私が思うにあくまで彼が仕えたのは曹操という人物であったとみて間違いないと思います。
晩年、曹操が魏公に就任することに反対して曹操から嫌がられたのは紛れもない事実です。ただし、彼は魏公就任に反対しただけです。別に後漢を潰すことを反対していたわけではありません。
いつか献帝が自然と曹操に皇帝位を渡すまで待つつもりだったのかもしれません。読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・田中靖彦「『後漢書』荀彧伝についてー『三国志』との比較を中心にー」(初出2012年 後に『中国知識人の三国志像』研文出版 2015年所収)
・丹羽兌子「魏晋時代の名族―荀氏の人々についてー」(中国中世史研究会編『中国中世史研究』東海大学出版会 1970年所収)
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