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この記事の目次
還暦前の楊彪に拷問
西暦196年、旧三公の大尉だった楊彪が皇帝を自称した袁術と縁戚関係にあるという理由で投獄されました。満寵は、楊彪の尋問担当でしたが、尚書令荀彧と少府孔融等が揃って満寵に尋問して調書を取るだけで拷問は止めてくれと言い含めます。しかし、満寵は一つとして返事をせずに法律の通りに尋問しました。
その上で曹操に面会を求めて言うには、
「楊彪を尋問しましたが嘘や隠し事をしている様子はなく罪には問えないと思われます。罪人を処刑するには、その罪を明らかにする必要がありますが、楊彪は名声があり、無実で殺害するような事になれば殿は民心を失うでしょう。私は、それを密かに惜しむものであります。」
曹操は、この意見を容れて楊彪を釈放しました。当時の常識では、高い地位にある人物には刑罰を加えない決まりになっていましたが、曹操が興した魏は珍しく高位高官でも容赦なく裸にして笞で打っていた事が当時の史料に出てきますので、満寵が法律の通りに尋問したという事なら拷問に掛けているでしょう。
この頃、楊彪は54歳で当時としてはお爺さんでしたが、満寵は情容赦なく法を執行したのです。ただ、楊彪も老齢ながら貴族にしては頑強な肉体だったのか、曹操より長生きし80歳を過ぎまで生きて魏の建国を見届けています。
若い頃は酷吏そのものだった満寵
このように若き日の満寵は、確かに公明正大で正義を実行する人であったようですが、およそ手心とか温情というものが見られない酷吏そのものであるように見えます。曹操の配下であった于禁と似ていて、立派な人だけどあまり慕われないというのが正直な人間像でしょう。
その後、満寵は酷吏から軍人に転身して後年に豫洲刺史になってからは善政を敷き、揚州に転任する時には、汝南の兵民が満寵を恋慕して、どこまでもついてきたと書かれていますから年齢を経るに従い丸くなったのでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
こうして拷問の達人としての満寵を見てみると、最初のチンピラの李朔はやはり愛と情熱というよりは、満寵に拷問でシバかれ恐ろしさの余り改心したと見るのが正しいのではないかと思えてきます。滝沢先生のように、一発ぶん殴るだけでは、済まなかったんではないでしょうか?
参考文献:正史三国志
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満寵(まんちょう)・年表
所属:魏(ぎ)
姓名:満寵(まんちょう)
字:伯寧(はくねい)
出身地:兗州山陽郡昌邑県(さんようぐんしょうゆうけん)
生没年:? - 242年
関連年表:
192年:曹操に仕える
196年:許の令に任命
208年:官渡の戦いの時期に汝南太守を務め、後に奮威将軍を兼務
219年:関羽が撃退されると安昌亭侯に進封
220年:曹丕(文帝)の時代に揚武将軍
222年:呉との江陵での戦いで功績を挙げ伏波将軍に任命
224年:賈逵の死後に豫州刺史を兼任
229年:曹休に変わって前将軍・都督揚州諸軍事に就任
230年:征東将軍に就任、孫権の合肥侵攻に備える
238年:老齢を理由に対呉の任を解かれ大尉となる
242年:大往生を遂げる(死去)
参考書籍:三国志 完全ビジュアルガイド 完全版