こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
王沈の『魏書』の呂伯奢事件
呂伯奢事件は正史『三国志』には全く記載がありません。陳寿はヨタ話と考えたのか、史実の中立性を守ったのでしょう。
呂伯奢事件については3つの史料があります。1番最初は王沈の『魏書』です。執筆者は王允の親族であり、魏(220年~265年)末期から西晋初期の人物。内容は董卓から逃げた曹操が数名の従者と一緒に呂伯奢の屋敷に行くも呂伯奢は留守。すると息子と使用人が、曹操たちの荷物を奪おうとしたので応戦して殺害。別に面白くもない普通の話である。
郭頒の『魏晋世語』の呂伯奢事件
次は先ほど紹介した『魏晋世語』の呂伯奢事件。曹操が呂伯奢の屋敷に行くと、やはり呂伯奢は留守。しかし息子は手厚くもてなしてくれます。ここが『魏書』と違います。だが、曹操は息子が自分をだまして役所に突き出す可能性があると考えてその場で殺害。どう考えても曹操にマイナス・イメージを抱かせてしまいます。
孫盛の『雑記』の呂伯奢事件
最後は孫盛の『雑記』。孫盛は東晋(317年~420年)の人物。魏の第2代皇帝である曹叡の側近として仕えた孫資の玄孫です。中身は『魏晋世語』をグレードアップした内容です。調理器具の音を聞いた曹操は呂伯奢の家族が自分を殺そうとしていると思って殺します。
その後、死体を前にして曹操は「俺が人を裏切るのは構わないが、人を俺を裏切るのは許さない!」と叫びます。『三国志演義』は孫盛の『雑記』をベースにしています。以上が3つの呂伯奢事件ですが、いずれも共通しているのは陳宮は未登場ということです。
史実の陳宮の初登場と反乱
史実の陳宮はいつから曹操に仕えたのでしょうか?どうやら初平3年(192年)からだったようです。兗州刺史の劉岱が黄巾軍の残党に殺害されたので、次の兗州刺史になることを推薦したのが陳宮でした。
曹操をかなり評価していたのです。ただし、興平元年(194年)に曹操の父の曹崇が徐州の牧である陶謙の部下により殺害。怒った曹操は徐州に侵攻します。この時に多くの民が殺害されました。
陳宮は同時期に兗州で反乱を起こして呂布を新しい主人に迎え入れます。結託したのは張邈と弟の張超、許汜、王楷です。陳宮が反乱を起こした明確な動機は全く分かっていません。一説では曹操の徐州大虐殺に呆れたと言われています。
三国志ライター 晃の独り言
兗州の反乱は失敗に終わり、陳宮は呂布と一緒に運命を共にします。陳宮は死ぬまで曹操のもとに戻ることはありませんでした。
陳宮は正史『三国志』だけを読むと、地味なマイナーキャラということで終わりますが、『三国志演義』のおかげで曹操初期のライバルになることに成功した人物でした。ちなみに、陳宮は横山光輝氏『三国志』での初登場時は四角い顔だったのに、再登場時は細くなっています。また、アニメ版では初登場時は色黒なのに、再登場時は色白・・・・・・
まさかの全身整形!きっと名医華佗に頼んだのでしょう・・・・・・
※参考文献
・小松建男「陳宮と曹操」(『筑波中国文化論叢』26 2006年)
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。
関連記事:陳宮ってどんな人柄なんですか?正史『三国志』をもとに人柄を考察
関連記事:陳宮と陳登の二人を呂布が用いれば曹操が滅亡してた?