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梁興とはどんな人?馬超と一緒に従軍していた皇帝の一族


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梁興とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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止まらない悪事

歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士

 

梁冀の悪事は止まる気配ゼロ。彼は財宝が欲しいから外国まで使者を派遣し、道中で民を無理やり自分の屋敷の召使いにしてしまいます。地方役人へのパワハラなんて当たり前だし、犯罪者を匿ったりする始末。さらに、数千人の民を略奪して奴隷に落としておきながら、「この人たちは自分から申告して奴隷になったのです」とウソもつく。もう誰も梁冀を止めることが出来ませんでした。

 

梁冀の最期

 

だが、梁冀にも最期が訪れました。後漢第11代皇帝桓帝(かんてい)は本初元年(146年)に即位しますが8年も経過すると自分が傀儡と分かりました。段々と梁冀に対して怒りが沸いてきましたし、このままではいつか自分も殺されると思います。文官や武官に相談しても梁冀に漏れる可能性が高いと思った桓帝が相談することにしたのは宦官でした。

 

桓帝が相談したのは唐衡(とうこう)です。彼は後に荀彧(じゅんいく)の舅になる人物です。相談を持ち掛けられた唐衡は、梁冀を憎んでいる宦官を次々と集めて梁冀抹殺の計画を立てました。延熹2年(159年)に桓帝や唐衡たちはクーデターを決行。梁冀の屋敷を包囲しました。観念した梁冀と妻の孫寿は自殺しました。梁氏一族や関係者は処刑・追放されて宮中は一時期、静かになったとのことです。宮中には梁氏一族が多かったのでしょう。

 

韓遂・馬超の挙兵

鍾繇(しょうよう)

 

時は流れて建安16年(211年)になりました。曹操配下の鍾繇(しょうよう)が長年問題になっていた西涼(せいりょう
)
方面の問題を解決するためにあることを提案します。

 

五斗米道の教祖・張魯

 

「漢中の張魯(ちょうろ
)
を討伐するという名目で兵士3000を引き連れて、西涼を通って彼らに圧力をかけましょう」

 

曹操(そうそう)は早速、それをすることにしました。漢中に行くには絶対に西涼方面を通らないといけません。韓遂・馬超や西涼方面の諸将は「張魯を討つとか言いながら、本当は俺たちを殺す気なんじゃ・・・・・・」と疑いました。

 

北宋(ほくそう
)
(960年~1127年)の司馬光(しばこう)が執筆した『資治通鑑(しじつがん
)
』に注を付けた胡三省(こさんせい)という人物によると、「(かく)を討って()を取るの計である」と言っています。

 

「虢を討って虞を取るの計」とは、春秋時代にあった(しん)という大国が小国の虢を討った話です。進軍中に晋は途中にあった虞という小国に「ちょっと通らせて」と頼みます。虞は快く通しますが、だまし討ちにより滅ぼされてしまいました。韓遂と馬超の挙兵には、このような逸話があるのです。

 

梁氏一族の生き残り 梁興の戦いと最期

梁興

 

さて、この韓遂・馬超の同盟勢力として従軍していた人物に梁興がいました。彼は殺された梁冀の一族でした。細々と生きていたようです。梁興は徐晃の軍に夜襲を仕掛けましたが、徐晃の方が将軍としては一枚上手であり逆に返り討ちにあってしまいます。

 

梁興

 

その後、西涼連合軍は馬超と韓遂が仲違いを起こして解散となりました。梁興の仲間の楊秋(ようしゅう)は降伏しましたが、梁興はその後も曹操に対して反抗勢力として奮戦します。

梁興

 

しかし、暴れるにも限界がありました。建安17年(212年)に曹操が派遣した夏侯淵の前に梁興は斬られました。享年不明です。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

梁興が曹操に降伏しなかったのは、自分が皇帝の一族だったからというプライドがあったのかもしれません。ましてや曹操は祖父が宦官。宦官は自分の親族を死に至らしめた憎い連中。死んでも降伏なんて出来なかったでしょう。せめて暴れて死に花を咲かせるしかなかったのかもしれません・・・・・・

 

文:晃

 

※参考文献

・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫2010年)

・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)

・林田慎之介『人間三国志 民衆の反乱』(集英社 1990年)

・平松明日香「後漢時代の太后臨朝とその側近勢力」(『東洋史研究』72-2 2013年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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