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この記事の目次
止まらない悪事
梁冀の悪事は止まる気配ゼロ。彼は財宝が欲しいから外国まで使者を派遣し、道中で民を無理やり自分の屋敷の召使いにしてしまいます。地方役人へのパワハラなんて当たり前だし、犯罪者を匿ったりする始末。さらに、数千人の民を略奪して奴隷に落としておきながら、「この人たちは自分から申告して奴隷になったのです」とウソもつく。もう誰も梁冀を止めることが出来ませんでした。
梁冀の最期
だが、梁冀にも最期が訪れました。後漢第11代皇帝桓帝は本初元年(146年)に即位しますが8年も経過すると自分が傀儡と分かりました。段々と梁冀に対して怒りが沸いてきましたし、このままではいつか自分も殺されると思います。文官や武官に相談しても梁冀に漏れる可能性が高いと思った桓帝が相談することにしたのは宦官でした。
桓帝が相談したのは唐衡です。彼は後に荀彧の舅になる人物です。相談を持ち掛けられた唐衡は、梁冀を憎んでいる宦官を次々と集めて梁冀抹殺の計画を立てました。延熹2年(159年)に桓帝や唐衡たちはクーデターを決行。梁冀の屋敷を包囲しました。観念した梁冀と妻の孫寿は自殺しました。梁氏一族や関係者は処刑・追放されて宮中は一時期、静かになったとのことです。宮中には梁氏一族が多かったのでしょう。
韓遂・馬超の挙兵
時は流れて建安16年(211年)になりました。曹操配下の鍾繇が長年問題になっていた西涼方面の問題を解決するためにあることを提案します。
「漢中の張魯を討伐するという名目で兵士3000を引き連れて、西涼を通って彼らに圧力をかけましょう」
曹操は早速、それをすることにしました。漢中に行くには絶対に西涼方面を通らないといけません。韓遂・馬超や西涼方面の諸将は「張魯を討つとか言いながら、本当は俺たちを殺す気なんじゃ・・・・・・」と疑いました。
北宋(960年~1127年)の司馬光が執筆した『資治通鑑』に注を付けた胡三省という人物によると、「虢を討って虞を取るの計である」と言っています。
「虢を討って虞を取るの計」とは、春秋時代にあった晋という大国が小国の虢を討った話です。進軍中に晋は途中にあった虞という小国に「ちょっと通らせて」と頼みます。虞は快く通しますが、だまし討ちにより滅ぼされてしまいました。韓遂と馬超の挙兵には、このような逸話があるのです。
梁氏一族の生き残り 梁興の戦いと最期
さて、この韓遂・馬超の同盟勢力として従軍していた人物に梁興がいました。彼は殺された梁冀の一族でした。細々と生きていたようです。梁興は徐晃の軍に夜襲を仕掛けましたが、徐晃の方が将軍としては一枚上手であり逆に返り討ちにあってしまいます。
その後、西涼連合軍は馬超と韓遂が仲違いを起こして解散となりました。梁興の仲間の楊秋は降伏しましたが、梁興はその後も曹操に対して反抗勢力として奮戦します。
しかし、暴れるにも限界がありました。建安17年(212年)に曹操が派遣した夏侯淵の前に梁興は斬られました。享年不明です。
三国志ライター 晃の独り言
梁興が曹操に降伏しなかったのは、自分が皇帝の一族だったからというプライドがあったのかもしれません。ましてや曹操は祖父が宦官。宦官は自分の親族を死に至らしめた憎い連中。死んでも降伏なんて出来なかったでしょう。せめて暴れて死に花を咲かせるしかなかったのかもしれません・・・・・・
文:晃
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫2010年)
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)
・林田慎之介『人間三国志 民衆の反乱』(集英社 1990年)
・平松明日香「後漢時代の太后臨朝とその側近勢力」(『東洋史研究』72-2 2013年)
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