関ケ原の合戦に敗北し、60万石クラスの一大名に落ちてしまった豊臣秀頼。ところが徳川家康は、そんな落ちぶれた秀頼を決して許そうとはせず、遂には大坂夏の陣へと追い込んで殺してしまいました。明らかに格下の豊臣秀頼を、なぶり殺しにしたかのように見える徳川家康の残忍さ。
しかし、それは21世紀の私達の目線であり、戦国時代の人々はそうは思っていなかったようで、本当の家康は若い秀頼に怯えていたようなのです。
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格式は徳川家康より上だった豊臣秀頼
実は、豊臣秀頼は大坂の一大名などという小さな存在ではありませんでした。第一には、豊臣家の家格は徳川のそれを一段上回っていた点です。これは秀吉の時代に定められた武家の家格を公家に準じた制度によるもので、豊臣家は摂関家、徳川や毛利のような五大老は清華家と定められました。
これに従うと、徳川家は清華家として太政大臣にはなれますが摂政関白にはなれません。事実、家康は征夷大将軍になっても家格は清華家のままで摂関家の秀頼より下でした。
朝廷でも、その家格を重視し大坂冬の陣が起こる慶長19年(1614年)になっても、毎年正月には、親王、門跡、公家が大坂城の秀頼に挨拶に来ていたそうです。それだけでも、もう他の大名とは別格の扱いでした。
天下人だった豊臣秀頼
また、豊臣秀頼は、東の信濃善光寺から西は出雲大社まで百を超える有名寺社の堂塔社殿を復興させています。従来、これは家康が豊臣家の財産を蕩尽させる為に仕向けたという話もありますが、これは国家の安寧を願う事業なので本来は天下人の仕事でした。
さらに秀頼には奉行の任命権もあり、出雲大社は堀尾吉晴、熊野三山では浅野幸長というように、それぞれの事業の奉行を指名して事にあたらせています。このような事は、一大名ではあり得ない事であり、秀頼の別格ぶりが窺えます。
秀頼が関白になり天下を支配する可能性もあった
もうひとつ、朝廷には秀頼を関白に任命する動きがあったようです。後世の私達から見ると、江戸時代の日本の支配者は一貫して征夷大将軍という先入観がありますが、これは家康や秀忠の時代には常識ではありませんでした。
義演准后日記という史料によると朝廷は、秀忠を征夷大将軍、秀頼を関白にと考えていたようで毛利輝元の手紙にも同じ記述がみられるそうで、当時は将軍と関白は並列できると考えていた人が多かった様子が分かります。
もちろん、家格の上からは、清華家の秀忠よりも摂関家の秀頼が上です。もし、関白秀頼が実現していたら、徳川幕府は関西の関白豊臣家に構図上は抑え込まれ、自由に統治権を行使できない可能性もありました。
オランダ東インド会社も慶長16年(1611年)の段階で日記に、今は事情があって天下人の位にはついていないが、秀頼こそが日本の正当な皇帝であり、多くの大名や民衆がそれを待ち望んでおり、将来、秀頼が天下人になる可能性は高いと記しています。
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