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この記事の目次
徳川の狸ジジイより将来性があった秀頼
さらに秀頼の有利さは若さにもありました。秀吉の最晩年の子供である秀頼は大坂冬の陣の段階で22歳、一方で徳川家康は73歳と当時の平均寿命を考えると、いつポックリ行ってもおかしくなく、事実、家康にも体力の衰えは忍び寄ってきていました。
一方で家康の覇業を継ぐべき徳川秀忠は、34歳くらいと若いのですが、諸大名に人気がなかったそうで、イエズス会の宣教師、ヴァレンタイン・カルヴァリヨは、
「高齢の家康は間もなく死ぬだろうが、その時には秀忠も滅びるであろう。そうでなくても秀忠は諸大名に嫌われているので政権を得られず、秀頼が天下の主になる」と明言しています。
幕府が開かれたとはいえ、家康の死後の安定的な権力継承は未だ保証されていませんでした。秀忠は諸大名に人気がなく、家康は自分の目が黒いうちになんとか秀頼を滅ぼそうと決意する事になるのです。
秀頼に付く諸大名は大勢いた
大坂夏・冬の陣というと、私達は徳川方には、有力な諸大名が味方し、豊臣方には没落した大名や、戦で食べている牢人ばかりが金で雇われたというイメージがあります。でも、これも違うようで、真田信繁以外にも、福島正守、細川興秋のような当主以外の大名の子弟が大坂に入城しています。
これは、当時の武家の常套手段である二股で、一族を幾つかの勢力に分けて必ず生き残れるようにんするリスクマネージメントだとも言えますが、それでも、豊臣方に一切勝ち目がないなら、血を分けた肉親を敵方に送り込むわけがないとも言えます。
つまり、大坂の陣は、最強の徳川家康が半死半生の豊臣家の息の根を止めたような横綱相撲ではなく、家康が己の死を目前にして、なりふり構わずに豊臣家を滅ぼす賭けに出たそんなリスキーな勝負だったのです。
滅びて後も徳川家を悩ます秀頼
そんなジジイ家康と若い秀頼のギリギリチキンレースは、家康の勝利に終わり、大阪城は落城し、秀頼は生母の淀殿と共に自害しました。ところが、当時の日本で絶大な人気を誇った秀頼への判官びいきは止まず、薩摩に逃げたとか、いや琉球まで逃げのびたとか、いよいよ島津が朝廷と結び、秀頼を押し立てて東上するなどと、その後何十年と徳川幕府を悩ませます。
実際、徳川家康が死ぬと、豊臣家のお膝元だった摂津、河内、和泉の周辺の村落では、徳川はもう終わりだ!と武装蜂起さえ起こり豊臣派の農民が暴れ回ったのです。歴史にifはありませんが、家康が死ぬのが、もう1年早ければ、天下はどうなっていたのか全く分かったものではなかったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
徳川家康が慶長十六年に二条城で秀頼と会見した時、京都の町は若き豊臣の当主を見ようと大勢の人々が集まったそうです。先代の秀吉は荒廃した京都の復興に尽力し、庶民の声望を得ていました。
おまけに秀頼は随筆明良洪範によると、小男の秀吉に似ず197㎝、167キロという相撲取りのような巨漢で馬に乗る(そんな馬いたのかな)と非常に目立つ容貌魁偉な人物であったそうで、家康は不安を覚えこの時に秀頼抹殺を決意したそうです。
参考文献:戦国時代を読み解く新視点 歴史街道編集部 PHP新書
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