塾。現代では大手から中小まで様々なものがあります。大手になると教えるのが上手なカリスマ塾講師が排出されます。
代表的なのは、「いつやるの?今でしょう!」の林修先生。
さて、後漢(25年~220年)にもカリスマ塾講師がいました。彼は劉備・公孫瓚などの群雄を教えただけではなく、朝廷や他の群雄からも人望がありました。その名は盧植。今回は盧植の生涯について解説します。
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鐘のような声?
盧植は生まれた年は分かっていませんが、出身地は幽州涿県涿郡。劉備と同郷でした。劉備と師弟関係である理由はこれで説明されます。身長は189センチ。当時ではかなりの高身長でした。また、鐘のような声だったようですが、正直言うと意味が分かりずらい例えです。要するにうるさかったのでしょうか?
盧植の師匠 馬融
盧植は若い時は儒学者の馬融に仕えており学問を学んでいました。馬融は一流の儒学者だけではなく、後漢第2代皇帝明帝の皇后である馬皇后の親族でした。つまり、馬融は外戚(=皇帝の一族)です。
馬皇后の父は後漢の名将である馬援がいます。馬援の子孫は馬騰・馬超。馬融は血は遠いですが彼らと親戚関係です。ちなみに、家系図をたどると馬融は袁紹・袁術・楊彪・楊脩とも親戚になるのです。馬氏は華麗なる一族でした。
「超」が付くほど生真面目
先述したように盧植は馬融の門下で学問に励んでいました。同門には鄭玄がいます。鄭玄も後世、後漢を代表する学者になります。実は盧植が仕えた師匠の馬融は一流の学者でしたが問題点がありました。自分の家が外戚であることを威張り散らし、講義の時も女を呼び宴会をする始末。
門下生は400人以上いましたが、決して評判の良い人物ではありませんでした。おそらく集まっていた連中は馬融の趣味にお供することが目当てだったのでしょう。さて、ある日のこと馬融はいつも通り、女を呼んで宴会を行いました。お供していた弟子のほとんどが楽しんでいたのですが、その中で盧植1人だけがずっと勉強していました。要するに盧植は呉(222年~280年)の顧雍と一緒で、酒が好きじゃなかったのでしょう。
顧雍は孫権から「お前がいたら酒がまずい」とブーイングをくらいますが、盧植は師匠の馬融から勉強熱心な態度を尊敬されました。政治と学問の世界の違いですね(笑)
同期とも対照的
盧植は師匠と考え方が違えば、同期とも考え方も違います。同期の鄭玄は世界史の授業で「訓詁学」を大成した人物で有名です。訓詁学とは簡単に言えば書籍の文章や文字の解釈にこだわる学問です。盧植の同期である鄭玄はこの研究に生涯を費やして就職もしませんでした。だが、盧植はそんなことよりも学んだことを世の中で実践しようと考えて就職もします。同期でもこんなに考えが違っていたのでした。
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