こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
戦闘民族 盧植
熹平4年(175年)に九江の異民族が反乱を起こすと、朝廷は盧植を九江太守に任命して反乱平定を命じます。反乱はすぐに平定されますが盧植は病気になり、辞職しました。劉備と公孫瓚を教えていたのは、この時期と推測されてます。
間もなく異民族が再び反乱を起こしたので、盧植は盧江太守に任命されて鎮圧に赴きました。盧植は儒学者というイメージが一般的ですが、実際はかなりの戦闘民族です。
黄巾の乱の功績と無念の失職
中平元年(184年)に宗教団体である「太平道」が反乱を起こします。黄巾の乱です。盧植は朝廷から主力部隊を率いて太平道の教祖である張角と戦って連戦連勝となりました。
ところが、とんでもないアクシデントが発生しました。ある日、後漢第12代皇帝霊帝の命令を受けて監察に来た左豊という宦官が来ます。ある人が、盧植に左豊に賄賂を渡すように指示します。しかし賄賂を許せない盧植はそれを拒否。怒った左豊は帰ると、「盧植は戦う気がありません」と霊帝に讒言をしました。その結果、盧植は免職となります。
盧植は死罪にされるところでしたが、今までの功績から許されました。また、黄巾の乱で第1の功績を挙げた皇甫嵩がお願いしてくれたことから復職します。
人気があったことから命拾い
中平6年(189年)に霊帝が亡くなり、大将軍の何進と宦官との間で政治闘争が勃発。何進は各地の群雄を集めて宦官を掃討しようと計画しますが、先手を打たれて返り討ちにあいました。
何進の部下である袁紹・袁術が兵を率いて宦官を攻撃。盧植もこの時の戦いに参加しました。おそらく、黄巾の乱の時の恨みを晴らしたのでしょう。最終的に混乱は何進が呼び寄せた董卓が治めてしまいます。
さて、董卓は後漢第13第皇帝少帝を廃して弟の陳留王を新しい皇帝にする計画を立てました。盧植はその意見に真正面から反対を表明。もちろん、提案者である董卓はいい気分がしません。逆に董卓は盧植を殺そうとしました。すると彭伯という人物が董卓にストップをかけます。
「盧植は有名な儒学者です。彼を殺せば天下が大騒ぎです」
それを聞いた董卓は盧植殺害を中止しました。盧植は名門出身ではありません。それなのに彼を殺すだけで天下が大騒ぎになることは、盧植の人気が高いことが分かります。命拾いした盧植でしたが、また命を狙われる可能性を視野に入れて辞職してしまいました。
袁紹からスカウト
初平3年(192年)に董卓は殺害されて、各地で黄巾軍の残党が暴れだしました。そんな最中、袁紹は引退していた盧植を軍師として招きました。
袁紹は河北の支配をめぐり公孫瓚と対決していました。公孫瓚は白馬義従という精鋭部隊を率いており簡単には勝てません。
そこで袁紹は軍略にも長けており、公孫瓚の師匠でもある盧植を呼んだのでした。しかも盧植は儒学者として有名人。幽州の人々を手なずけるには持ってこいの人材でした。
呼ばれた盧植は董卓の時とは違い嫌がりもせずに応じてくれました。なぜなら袁紹の家は4代に渡り宰相を輩出した名門。しかも儒学を学んでいる家だったので、盧植は快く引き受けたのです。だが、袁紹の所に到着した途端に盧植は病に倒れてこの世を去りました。残された息子の盧毓は魏(220年~265年)に仕えることになります。
三国志ライター 晃の独り言
盧植を失った袁紹は自力で公孫瓚を倒して河北の覇権を握りました。あっぱれです!もし盧植が生きていたら、官渡の戦いで曹操による兵糧庫襲撃なんて無かったと私は考えています。
盧植さえいたら、袁氏の後継者争いも無かったでしょうね。
文:晃
※参考文献
・高橋康浩「范陽の盧氏についてー盧植・盧毓と漢魏交代期の政治・文化―」(『東洋史研究』75-1 2016年)
・増淵龍夫「後漢党錮事件の史評について」(『一橋論叢』44-6 1960年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。
関連記事:盧植とはどんな人?不正と悪を憎み酒を愛した武闘派学者の人生
関連記事:読書嫌いの劉備が学んだ盧植先生!クラスメイトは誰だったの?