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劉備の師匠・盧植はなぜ知識人から人気があったの?


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盧植はなぜ知識人から人気があった?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦闘民族 盧植

三国志のモブ 反乱

 

熹平4年(175年)に九江(きゅうこう)の異民族が反乱を起こすと、朝廷は盧植を九江太守に任命して反乱平定を命じます。反乱はすぐに平定されますが盧植は病気になり、辞職しました。劉備と公孫瓚を教えていたのは、この時期と推測されてます。

 

盧植

 

間もなく異民族が再び反乱を起こしたので、盧植は盧江(ろこう)太守(たいしゅ
)
に任命されて鎮圧に赴きました。盧植は儒学者というイメージが一般的ですが、実際はかなりの戦闘民族です。

 

黄巾の乱の功績と無念の失職

太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

中平元年(184年)に宗教団体である「太平道(たいへいどう
)
」が反乱を起こします。黄巾の乱です。盧植は朝廷から主力部隊を率いて太平道の教祖である張角(ちょう かく
)
と戦って連戦連勝となりました。

 

張譲(宦官)

 

ところが、とんでもないアクシデントが発生しました。ある日、後漢第12代皇帝霊帝(れいてい)の命令を受けて監察に来た左豊(さほう)という宦官(かんがん)が来ます。ある人が、盧植に左豊に賄賂を渡すように指示します。しかし賄賂を許せない盧植はそれを拒否。怒った左豊は帰ると、「盧植は戦う気がありません」と霊帝に讒言をしました。その結果、盧植は免職となります。

 

盧植

 

盧植は死罪にされるところでしたが、今までの功績から許されました。また、黄巾の乱で第1の功績を挙げた皇甫嵩(こうほ すう
)
がお願いしてくれたことから復職します。

 

人気があったことから命拾い

宦官を一掃することを決意する何進

 

中平6年(189年)に霊帝が亡くなり、大将軍の何進(かしん)と宦官との間で政治闘争が勃発。何進は各地の群雄を集めて宦官を掃討しようと計画しますが、先手を打たれて返り討ちにあいました。

宦官を倒す袁紹

 

何進の部下である袁紹・袁術が兵を率いて宦官を攻撃。盧植もこの時の戦いに参加しました。おそらく、黄巾の乱の時の恨みを晴らしたのでしょう。最終的に混乱は何進が呼び寄せた董卓が治めてしまいます。

 

献帝と董卓

 

さて、董卓(とうたく)は後漢第13第皇帝少帝(しょうてい
)
を廃して弟の陳留ちんりゅうおう)を新しい皇帝にする計画を立てました。盧植はその意見に真正面から反対を表明。もちろん、提案者である董卓はいい気分がしません。逆に董卓は盧植を殺そうとしました。すると彭伯(ほうはく)という人物が董卓にストップをかけます。

 

「盧植は有名な儒学者です。彼を殺せば天下が大騒ぎです」

 

董卓

 

それを聞いた董卓は盧植殺害を中止しました。盧植は名門出身ではありません。それなのに彼を殺すだけで天下が大騒ぎになることは、盧植の人気が高いことが分かります。命拾いした盧植でしたが、また命を狙われる可能性を視野に入れて辞職してしまいました。

 

袁紹からスカウト

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

初平3年(192年)に董卓は殺害されて、各地で黄巾軍の残党が暴れだしました。そんな最中、袁紹は引退していた盧植を軍師として招きました。

 

白馬義従の公孫サン

 

袁紹は河北の支配をめぐり公孫瓚と対決していました。公孫瓚は白馬義従(はくばぎじゅう)という精鋭部隊を率いており簡単には勝てません。

 

袁紹

 

そこで袁紹は軍略にも長けており、公孫瓚の師匠でもある盧植を呼んだのでした。しかも盧植は儒学者として有名人。幽州(ゆうしゅう
)
の人々を手なずけるには持ってこいの人材でした。

 

盧植とはどんな人?07 盧植、袁紹

 

呼ばれた盧植は董卓の時とは違い嫌がりもせずに応じてくれました。なぜなら袁紹の家は4代に渡り宰相(さいしょう
)
を輩出した名門。しかも儒学を学んでいる家だったので、盧植は快く引き受けたのです。だが、袁紹の所に到着した途端に盧植は病に倒れてこの世を去りました。残された息子の盧毓(ろ いく
)
(220年~265年)に仕えることになります。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

盧植を失った袁紹は自力で公孫瓚を倒して河北の覇権を握りました。あっぱれです!もし盧植が生きていたら、官渡の戦いで曹操による兵糧庫襲撃なんて無かったと私は考えています。

 

盧植さえいたら、袁氏の後継者争いも無かったでしょうね。

文:晃

 

※参考文献

・高橋康浩「范陽の盧氏についてー盧植・盧毓と漢魏交代期の政治・文化―」(『東洋史研究』75-1 2016年)

・増淵龍夫「後漢党錮事件の史評について」(『一橋論叢』44-6 1960年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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