戦国時代の武将として人気の伊達政宗ですが、どのように亡くなったかはあまり知られていません。それどころか、晩年は小説やドラマでもさっとしか描かれておりません。
なぜでしょう?
それは、伊達政宗が戦国時代の終わりごろにやっと1人前になったいわゆる若手だったことに由来します。そして、豊臣秀吉が天下統一し、徳川家康が江戸幕府を開くなど、時代は変化していきます。日本中を巻きこんだ戦争が終わり、世の中は平和へと舵をきっていたのです。
なので、戦争の天才の出番は少なくなり、過激なエピソードも減っていきます。また、もう言ってしまいますが劇的な死に方はしておりません。68才という当時としては珍しいほど長生きしました。そして病死です。
ですので、小説などでは晩年は詳しく描かれることはないのです。今回は、そのあまり知られていない伊達政宗の晩年にスポットライトを当ててみたいと思います。
この記事の目次
戦国の英雄たちとの年の差は?
伊達政宗は若いという印象がありますよね。それは、戦国時代の主な武将たちより、かなり遅く生まれているからです。主な英雄の生まれた年を確認してみましょう。
織田信長 1534年。
豊臣秀吉 1537年。
徳川家康 1543年。
信長からすれば秀吉は3才年下。家康は、9才年下でけっこう離れていますね。で、伊達政宗は1567年生まれです。
信長とはなんと33才差!
秀吉とちょうど30才差。
家康とも24才も離れています。
そりゃ、まだまだ若造よのぅ、みたいに扱われるはずです。ちなみに、政宗のお父さんの輝宗は、1544年生まれなので家康と同世代です。
そうそう、豊臣秀吉が天下統一を確実なものにした北条氏の「小田原城攻め」のとき政宗はまだ23才!江戸幕府が開かれた1603年でも36歳です。この後の半生を解説していきます。
天下への野心は消えていなかった?スペインと軍事同盟を結ぼうと画策
1612年に、政宗は支倉常長を団長にした使節団をヨーロッパに送ります。支倉常長は、エスパーニャ(スペイン)との軍事同盟を結ぶよう命じられていました。当時の国王のフェリペ3世に対して主君のことをこう伝えたと言われています。
「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり」
政宗には力があって、世の中の人全てが皇帝となるだろうと思っている、という意味ですね。そうやってスペインを味方につけて、協力してもらえれば、江戸幕府を倒せると考えていたと疑わせますね。しかし、結局この同盟は実現しませんでした。
その間、家康は自身の天下を磐石なものにしてきます。仕上げは、豊臣家を滅亡させることでした。遂に1614年、家康は大阪城を攻めることを決意します。いわゆる、大阪冬の陣です。
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大阪夏の陣では、真田信繁(幸村)と対決
徳川方として参加した伊達政宗は、大坂冬の陣では戦闘は行っておりません。ですが翌年の、大坂夏の陣では、かなり激しく戦います。かなりの戦果をあげ、後藤又兵衛も討ち取ります。
大阪城まで進軍すると思われたところに立ちふさがったのが、真田信繁でした。ここに、戦国時代最後の豪華な対決が実現します。
豊臣方についていた真田信繁との直接対決でした。実は、この真田信繁、政宗と同い年(当時48歳)なのです。どちらも軍事に関して天才的と言われており、年も同じだから意識していたはずです。両軍は、野戦(城や砦でないところ)で激突します。
激しくやり合いますが、時間切れで結局引き分けという格好で両軍引き上げます。さすがの両雄という感じですね。その夜、翌日死ぬことを覚悟した真田信繁は、娘と次男を伊達軍の元へ送ります。
伊達軍は、真田信繁の意を汲み2人をかくまいます。その後の家康の追求にもとぼけて、2人は伊達家で生き延びるですが、そのあたりはまた別の機会に。結局、これが政宗最後の戦となります。
その後は領国の治世に尽力
1616年に家康が亡くなりますが、後を継いだ秀忠の安定した政権運営に感心し、天下への野望を示さなくなっていきます。そのころ、政宗は領国の農政改革や治水事業などに取り組んでいました。結果、米の生産量はあがり、洪水も減り、領民たちにとても感謝されるのです。
戦で勝って凱旋したときよりも喜んでくれているように感じられたかもしれません。政宗は、豊かに実った田を見ながら、充実感を覚え始めます。また、生前の家康が政宗に言っていたことを思い出します。
戦のない国を作るのだ。若い若いと言われ続けた伊達政宗も、もう50才になっていました。また戦をすれば、田畑は荒れ領民たちは悲しむ。見回せば、一緒に暴れ回った将たちもみな年を取っていました。ときに酒を飲みながら、徳川家と戦になったらどうする、ということをネタに盛り上がったりもします。
しかし、そうなればこの中からまた誰かが死ぬのかもしれないのです。それよりも、この平和が続くのが1番だと考えたことでしょう。家光が、参勤交代制を導入すると言ったときも、まっさきに賛成の声を上げます。
「その命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」
と発言し、諸侯に反対させませんでした。そんな関係性もあってか、家光は「伊達の親父殿」と慕ってくれます。請われて、ときに戦の話などをしてあげていたそうです。
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