伊達政宗の死因は食道癌だった?遅れてきた天才の晩年の最期


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伊達政宗の死因(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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伊達政宗は江戸で最期を迎える。死因は食道がんか

 

健康に気を遣っていた政宗でしたが、年には勝てません。1634年(67才)の頃から体調を崩していたと記録にあります。嚥下(えんげ)障害(物を飲み込みにくくなる)と食欲不振。医学的な見地からなされた研究では、死因は「食道がん」ではないかと言われています。

 

最近の調査では「食道がん」は、男性が女性の6倍多く、全体の70%が60~70歳代に発症しているとあり、それもぴったりあてはまっています。自覚症状があるということは、この時点で既にかなり進行しています。1636年に入り、政宗は死を感じていたのか辞世の句を制作。

 

また、「ここに埋めて欲しい」と埋葬する場所も指定します。体調がすぐれない中、4月に参勤交代で江戸に向かいます。4月28日に江戸に到着しますが、すでに絶食状態でした。5月に、無理をおして登城。家光にも謁見します。

 

政宗の衰弱ぶりに驚いた家光は、江戸中の寺社に回復の祈祷をさせ、医者を派遣します。それでも回復の兆しは見えず、家光は伊達家の屋敷に見舞いに赴きます。政宗は、気丈にも行水し、身支度を整えて家光を迎えたといわれています。亡くなる3日前のことでした。

 

5月24日早朝政宗は静かに息を引き取ります。享年68才でした。

 

伊達政宗の死因「食道がん」

 

すでに触れていますが、死因は「食道がん」ではないかと言われております。嚥下障害、食欲不振と全身の倦怠感。4月下旬には、絶食状態なのに腹部が膨張していました。これは、腹水がたまってきていたと考えられ、がんの症状にあてはまります。また、死の直前まで意識が混濁するということがなかったことなども整合性があります。正確には「食道がん」と「がん性腹膜炎」を併発していたのではないかとされています。

 

戦国ライターしばがきの独り言

sibagaki(ライターしばがき)

 

戦国時代の中で取り扱われることの多い伊達政宗。ですが、人生の半分は平和な時代でした。その中で、戦争よりも平和の方が素晴らしい、と感じていたのだろうと思います。天下は取れませんでしたが、平穏な晩年を過ごし、今でも東北の方々から尊敬されるような治世を行いました。その方が幸せだったのではないか、と個人的には思っています。

 

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