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この記事の目次
伊達政宗は江戸で最期を迎える。死因は食道がんか
健康に気を遣っていた政宗でしたが、年には勝てません。1634年(67才)の頃から体調を崩していたと記録にあります。嚥下障害(物を飲み込みにくくなる)と食欲不振。医学的な見地からなされた研究では、死因は「食道がん」ではないかと言われています。
最近の調査では「食道がん」は、男性が女性の6倍多く、全体の70%が60~70歳代に発症しているとあり、それもぴったりあてはまっています。自覚症状があるということは、この時点で既にかなり進行しています。1636年に入り、政宗は死を感じていたのか辞世の句を制作。
また、「ここに埋めて欲しい」と埋葬する場所も指定します。体調がすぐれない中、4月に参勤交代で江戸に向かいます。4月28日に江戸に到着しますが、すでに絶食状態でした。5月に、無理をおして登城。家光にも謁見します。
政宗の衰弱ぶりに驚いた家光は、江戸中の寺社に回復の祈祷をさせ、医者を派遣します。それでも回復の兆しは見えず、家光は伊達家の屋敷に見舞いに赴きます。政宗は、気丈にも行水し、身支度を整えて家光を迎えたといわれています。亡くなる3日前のことでした。
5月24日早朝政宗は静かに息を引き取ります。享年68才でした。
伊達政宗の死因「食道がん」
すでに触れていますが、死因は「食道がん」ではないかと言われております。嚥下障害、食欲不振と全身の倦怠感。4月下旬には、絶食状態なのに腹部が膨張していました。これは、腹水がたまってきていたと考えられ、がんの症状にあてはまります。また、死の直前まで意識が混濁するということがなかったことなども整合性があります。正確には「食道がん」と「がん性腹膜炎」を併発していたのではないかとされています。
戦国ライターしばがきの独り言
戦国時代の中で取り扱われることの多い伊達政宗。ですが、人生の半分は平和な時代でした。その中で、戦争よりも平和の方が素晴らしい、と感じていたのだろうと思います。天下は取れませんでしたが、平穏な晩年を過ごし、今でも東北の方々から尊敬されるような治世を行いました。その方が幸せだったのではないか、と個人的には思っています。
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