董卓の暴政に耐え兼ね、女の身でありながらその美貌と才気、そして愛を使って呂布と董卓という二人の人物の人生を狂わせたと言っても良い、中国四大美女の一人、貂蝉。
最初に言ってしまいますがこの貂蝉という人物はあくまで三国志演義での創作の人物です。しかしその一方で、哀しい最期を迎える姿、呂布との愛に目覚める姿、悪女としての姿など様々な貂蝉の姿も色々なメディアで見られるようになりました。
今回は貂蝉について少しお話しましょう。
貂蝉という存在は創られた
繰り返すようですが、実際に貂蝉という人物はいません。
しかし呂布伝など様々な文献をみると董卓の妾と呂布が密通しており、それが露見することを恐れた呂布が謀反を先に起こしたともあるので、そういったところから「貂蝉という存在」を創作したのではないかと言われています。つまり貂蝉という人物はいなくても、おぼろげながら貂蝉というイメージモデルはいたと言って良いと思っています。
三国志演義での貂蝉
少しおさらいとなりますが、三国志演義での貂蝉は董卓の暗殺後に呂布の妾になります。なお義父の王允は処刑されることとなりますが、貂蝉はその後は呂布の妾となったまま、曹操に捕まることになるもその後は出てこないのでどうなったかは不明なままです。
しかし異説として呂布の後を追って自害したり、関羽の妻になったり、曹操と関羽に奪い愛されたり、何やかやあって関羽に斬られたりと色々なお話があるのも貂蝉の特徴と言えるでしょう。
異説「貂蝉」
さて貂蝉はあくまで架空の人物ですが、色々な民間伝承が残っています。その最期もそうですが、出生についても多数あるのが特徴ですね。
三国志演義でのように王允の養女であったり、酒場の歌妓であったり、遊郭の遊女だったりしたかと思えば、シルクロードからやってきた欧州からの美女、死体を繋ぎ合わせた人造人間などいったいどこから話が生まれたのかと思うものまで色々とあるのが面白い所です。
三国志演義での消化不良な最期
ここで少し気になるのが、三国志演義での貂蝉の最期です。三国志演義での貂蝉は呂布の妾となった後は何をしていたか良く分からない上に、最期はどうなったかすら定かではありません。
残念ながらここばかりはかなり消化不良と言えるでしょう。ただし三国志演義でのこの貂蝉の扱いには、儒教思想が影響していたのではないかと筆者は思います。
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